「遊ぶ」の話
遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
(白川静『文字逍遥』平凡社、2014、p.10)
いま読んでいる漢字の本は、そんな一文で始まる。「遊ぶ」こととその文字を巡って話が展開していくのだけど、その中に「~あそばせ」という言葉遣いの語源なんかも出てきておもしろい。
「あそぶ」が神の行為を意味する語であったことは、のち貴人の行為が、すべて「遊ばす」という語で示されていることからも知られよう。音楽や酒宴など、貴人の行為が、すべて遊ばすということばで表現されるのは、そのような行為がもと、神に近い次元のものとして理解されていたからである。(p.34)
それで上流階級の人たちは「ご覧あそばせ」とか「お聞きあそばせ」とか言うのか……と、ちょっと納得した次第。よく、隙間があることを「あそんでいる」と表現したりするけれど、ああいうときの「あそび」って、良くも悪くも「余裕がある」という意味で、上流階級の人たちは、余裕で見たり聞いたりするから「あそばせ」って言うわけだ……。
という、この理解が適切かどうかはよくわからない。わからないけれど、確かに「遊び」には、余裕とか余白、娯楽の意味合いが伴う。生活することでいっぱいいっぱいのときには遊ぶことができない。だから「あそばせ」なんて言っていられるのは、生活に余白がある人に限られる。
そんなことを書いていて思い出すのは、やっぱりフランスのあの王妃だ。「パンがないならお菓子を食べればいい」と言い放って民衆の不興を買い、最後には断頭台の露と消えた、マリーアントワネット。もっともこの発言は後世の創作であるとされ、実際のアントワネットは心優しい人物だったらしい。宮廷にかかる予算を削って国民の救済に充てていた人だった。
「遊ぶ」という言葉を辿っていくと、もともとは神と人とが交わる儀式などに使われていたらしい。特に、神と人とが融け合う要素の強い音楽において「琴をあそばす=琴を弾く」という形で使用され、もっと時代が下ると貴人の行為を示す助動詞になっていく。
言われてみれば、英語の「プレイ」も、余白や娯楽に関わる言葉だ。テニスをする、ゲームをする、芝居をするとか言うときの「する」は、英語だと全部「プレイ」だもんな……。それ単体で使えば、まさに「遊ぶ」という意味になる。
遊ぶためには、まずそのための余裕がなければならない。それはつまり、遊びや娯楽がたくさんあるほど、社会に余裕があるということでもあって……。アニメやゲームが流行して止まない日本、そのあたりは恵まれているよなあと思う。今日は「遊び」から、そんなことを考える。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。