そんな無駄を受け入れる理由
無駄なことをどこまで許容するか、ということについて考えている。きっかけは、最近買った陶器の器だ。
当然のことながら、陶器は扱いを間違えれば壊れる。うっかり落として割ったり、少し力が入ったまま机に置いてヒビが入ったり。その点、プラスチック製の皿なら、軽いし割れないし丈夫だ。使い始める前に煮沸する必要もないし、扱いが多少乱暴でもびくともしない。それなのにどうして陶器を使うのか?
実際に陶器を使う人に訊いてみると「陶器は割れるからこそいいんや」と、その刹那的な美学を愛する人もいれば、「料理を載せたときの見え方が違う。料理は目で見て味わうものでもあるから、プラスチックだと味気ないかな」と、皿に載せる料理との関係を大事にする人もいる。いろいろだ。
自分はどうだろう?それを考えるために、二枚の皿を比べてみる。
一枚は、先輩が100円ショップで買ったプラスチックの白い皿で、引っ越しの時に「要らないから」とくれたもの。心置きなく使い、汚れが取れなくなるとあっさり捨てた。なんの思い入れもなかったからだ。
もう一枚は、自分が雑貨屋で買った陶器の皿で、店主の説明(「ベトナム製の釉薬を使ってるねん、一枚一枚手作りやから、同じシリーズでも柄が違うで」)を聞いて購入したもの。これは今も使っている。色が渋いせいか汚れは目につかないし、薄くて強度もあり、割れる気配はない。価格は三千円ほどだったので、前者の30倍になる。
後者の皿を買った時に、自分が本当に欲しかったものはなんだろう?どうして100円ショップの皿では駄目だったのだろう?どちらも料理を入れる機能に変わりはないし、誰かをもてなすために高い食器を使うことだって今のところないのに。
それを思うとき、これは私の一種の憧れの表現なのだと思う。自分が好きなのは、陶器そものやそれの持つ肌触り、割れるという繊細さ以上に、陶磁器を日用品として暮らす人たちなのだ。彼らが使う物を私も使いたい、という単純な憧れ以上のものは、そこにはない。これは、割れるかもしれない値段の高い陶器を、それでも使いたいという意志表示だ。私は彼らへの憧憬を、無駄なものとして切り捨てることができないのだ。
どんな些細な選択でも、人はそれによって意思表示をしているのだなあと思う。効率と利便性、コスパを重視して、軽く使いやすいプラスチックを使うことも、誰かに憧れて陶器を使うことも、何も間違ってはいない。ただ私は、効率だけでは生きられそうにない、というだけで。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。