本当の「クリエイティブ」とは

「クリエイト」という言葉は、「創造する」と訳されて、すごくよいものであるように考えられている。でもそれは、時代が変わったからで、昔はもっと悪い意味だった。なぜならゼロからイチを生み出す「創造」なんていう業は、神さまだけのものだったからだ。

だから「人間がクリエイトする」というのは、神さまがする創造の劣化版──つまり、捏造とか幻とか、リアルじゃない虚偽のもの、悪い意味でのフィクションを意味していた。

例えば、シェイクスピアが書いた台詞で「create」が出てきたら、大体こっちの意味だ。「捏造する」とか「幻を作り上げる」とか。その頃の英語は、神様以外の生き物に「創造」なんていうだいそれた行為は認めていない。

それが、何をどうして良いニュアンスを持つようになったのか?
今「クリエイティブ」と言えば、それは「斬新だ」「オリジナリティがある」というポジティブな言葉に聞こえるじゃないか?

これはもちろん、西洋が近代化に伴って神殺しを遂行していったことと関係が深い。
啓蒙時代のヨーロッパでは、キリスト教的な神に頼らずに道徳を説明するようになり、神様に代わって人間もまた「創造する」ことが可能なのだとして、機械文明を推し進めていった。

その過程で「クリエイト」という言葉も、晴れて今のような地位を獲得した。すなわち、ゼロからイチを生み出すこと。今までにないようなものを作ってみせること。そんなの人間だってできる、というある種の思い上がりが「創造する」の言葉の背後にはある。

だけどどうだろう。どんなにオリジナリティがある人だって、世の中にあるものを使って何かを産み出しているだけじゃないか?

当然のことながら、人間は誰も神様にはなれない。何もないところから魔法みたいに何かを取り出してみせることはできない。私たちにできるのは、せいぜい今ある素材を新しく組み合わせることだけだ。

世の中には、過剰に「自分らしさ」「オンリーワン」ということにこだわる人がいるけれど、人間のやることはどう頑張ったって誰かに似てしまう。どう頑張ったって、誰かの影響を受けるし、人にできることの限界を超えることはできない。

仮に、ものすごくオリジナルなものが作れたとしても、それは自分しか理解できない新しい言語みたいになってしまうだろう。それは誰にも通じない。

人は誰もが特別で無二の存在でありながら、互いによく似ている。このことを本当にわかっている人だけが、他人に理解されながらも独創的なものを作れるんじゃないだろうか。

本当の意味での「クリエイティブ」は、人間であることの限界を自覚しながら、新しいことに挑むことであって、「俺は誰とも違うんだ!」と自我を押し付けることではきっとない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。