「そういうもの」だから
目に見える世界と見えない世界とに、人は絶えず引き裂かれている。「引き裂かれている」という表現は物騒だけれど、その両者を行き来することで、両方を体よく利用しているのだとも言える。
例えば「あ」という、この文章を読んだときにあなたの頭の中に再生される音と、「あ」という書かれた文字そのもの。音としての「あ」は目に見えないし、書かれた文字から「あ」の音は聞こえない。2つは、まったく関係のない世界に存在している。それでも私たちをそれをどちらも器用に、似たものとして扱う。本当はなんの関係もないのに。
どうしてそんなことができるんだろうな……と思う。
だって、目の前にいるその人と「あなた」という言葉とはまるで似ていない。まして紙に書かれた「あなた」という文字の形は、もはや人の形をしていない。それでも、「あなた」は目の前の人を指していて、誰もがそう納得していて、文字にしたときも口に出したときも同じように、最も近い相手を指す言葉として機能する。そう考えると変な感じがする。
「あなた」という概念は目に見えない。「あなた」という音声は聞こえる。そう書かれている文字は読める、目に見える。この三つが、どうしてひとつになって理解されるんだろう。人間の営みって、不思議なことが多い。
だけど、小学一年生で平仮名を習う時に、そんなことに異議を唱える子ってほとんどいなくて、「『あ』という文字は、五十音の最初の音を示すものです」と言われて素直に受け入れる。それはもう、「どうしてそうなのか」と先生を問いただしても仕方がなくて「そういうものなのだ」と納得し、とりあえずはそれを使っていくことを覚えるしかない。他に選択肢はない。
そういう意味では、人間の社会はかなりの部分が、根拠のない「そういうもの」で出来上がっている。責めても叩いても始まらない「そういうもの」でしか、人の世界は構築できないのかもしれない。
(もちろん、「あ」という文字は「阿」の字が変化したものであってちゃんと根拠があります……と言われる可能性もあるけれど、それならなぜそれが「阿」だったのか、なぜ同じような音を表すのに「A」とか「a」があるのか……と言い出すと、やっぱり最後には無根拠性に行き着く)
どうして目に見えない世界と見える世界があって、私たちはその中を生きなきゃいけないのか、そもそもなぜ生きなければならないのか、そういうことは問い詰めても答えが出ない。「そういうもの」だから、諦めて受け入れて生きなさい、と言われる。だけど、その前で立ちすくむことくらいは自由にさせてほしい。だって人間っていうのは、無駄なこともたくさんする「そういうもの」だから。