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作る治安

路上のゴミを拾って捨てる。いつもそうして歩いているわけじゃないけど、気が向くとそうする。雨に濡れたチラシ、ビニール袋、空き缶、煙草の吸殻。下を見て歩くと、細かな物がたくさん捨てられているのがわかる。とりわけ濡れている物はタチが悪い。衛生的にも心理的にも汚い感じがするし、誰もそのゴミを拾わない理由がよくわかる。

「道を綺麗にするのは行政の仕事なんだから、任せておけばいいでしょ。他人の仕事を取るな」
そんな風に言われるかもしれない。確かに公道の管理は彼らの仕事だ。自分がしゃしゃり出ることでもないし、人によっては「その程度のことで善人ぶるな」と言うだろう。

どうして綺麗にするのか、と言われたときに、明確な答えを返すことができない。デパートやショッピングモールのお手洗いが汚れていたら、軽く掃除して出てくることもあるけど、どうしてそうするのかもよくわからない。人によっては、上と同じことを言う。「トイレ掃除の人が雇われているはずでしょ?任せておけばいいのよ」と。

もちろんそれも間違っていない。だけど、場所っていうのはそこにいるすべての人が作っているのだ。住んでいる人も、訪れた人も、すべての人がその場所の一部なわけで。だとしたら、自分がいる空間を綺麗にしておきたいと思うのは、ある程度、当たり前のことなんじゃないかな。

みんな治安のいい場所に住みたがったり、綺麗なところに行きたがったりするけど、場所は放っておいても治安がよかったり綺麗だったりするわけじゃない。その場所を綺麗に保つ人がいて、治安のよさに常に気を配っている人たちがいるからこそ、それらの長所は保たれる。

犯罪心理学で「割れ窓理論」というものがあって、「窓が割れている家が一軒あると、その周囲の治安が悪くなる」。ゴミに溢れた汚い場所なんかも一緒だ。人は汚れたり壊れたりした場所にいるほうが、悪いことをするハードルが心理的にグッと下がる。

裏を返せば、道路を綺麗に保つことは、間接的に治安のよさを守ることでもある。なにも「この地域の安全を守れ」と声高に主張してなくても、街の汚れをひとつずつ取り除くほうが効果がある。

一人でできることなんてたかが知れているけど、何もしないよりはずっといい。場所の治安や綺麗さは、あらかじめあるものだと思いがちだけど、そうじゃなくて、そこにいるすべての人が作るものだ。だから流動的だし、いつもそれを守っている必要がある。今日は雨上がりの歩道で、そんなことを思った。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。