国家の幸福
父はよく「お前は幸せなんだぞ」と言う。
「時代が違えば俺たちなんかただの百姓だ。それがこうやって、ひと昔前なら王候貴族みたいな暮らしをしてる。街に出ればうまいもんが食えて、学校だって行けて当たり前だ。俺は本当に、この時代の日本に生まれてよかったと思ってるよ」
それはそうだと思う。蛇口を捻れば水が出て、電気とガスが安定して供給される。それだけでも、昔に比べれば遥かに豊かな暮らしだ。外食しようと外に出ればイタリアンでもフレンチでも中華でも、たいていの国の料理が堪能できる。それだって目の飛び出るような値段で食べるわけじゃない。庶民価格だ。王候貴族だけが贅沢する時代は終わった。父が言いたいのは、だいたいそういうことなんだろう。
学校に関しても、まだまだ格差があるとは言え、女性でも当たり前に進学する時代だし、誰でも義務教育を受けられて、とりあえず読み書きの習得はできるようになっている。ひと昔前なら確かに、その恩恵にあずかることはできなかった。
ただ、それはすべて国家のため──例えば、学力の底上げによる生産性の向上や、国民の消費生活の拡大へと繋がっていて、純粋に私たちのためにこのような生活が用意されたわけではない。国家の目指すところと個人が目指すところが同じであれば、それは幸福なことであり、父の世代はその点が一致していたのだろう。誰もが教育を受けることができて、生活が便利になり、物質的に飽和するくらい物資の供給が豊富な社会。そこを目指して頑張った世代なのだと思う。彼らの努力の上に自分達の今の生活が築かれていること、反論の余地はない。だけど自分達の世代はどうなのか?
自分が目指すところは、いま国家が目指すものと同じなのか?と言われると、それは違うように思う。自分が「生きやすくて賢い社会」を志向する一方で、国が目指すのは「美しい国、強い国」だという印象を受ける。強く美しいのは素晴らしいことなのだが、そのために無駄な我慢を強いられたり、服従を求められたりするなら、それはいただけない。上手に付き合っていく方法を模索していこう。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。