死ぬ権利を
死ぬ権利について考える。歳を取って体が弱り病院にかかると、まず延命治療を勧められる。あれもできます、これもできます、こうすればもう少し長生きできます。長く生きることは素晴らしい、死ぬより生きているほうがいい。そう無邪気に美しく信じる人の前ではとても言いにくいけど、人には死ぬ権利がある、本当はそう思っている。延命も治療も拒否し、点滴を外す。そういう権利。
父方の祖母はそうやって死んでいった。体に巻き付いた点滴のチューブをしょっちゅうのように外したがり、最後には治療を拒否して老衰で死去。食事を摂るのも拒んで死んでいった。それでよかったのだと思う。
それでも最後には人の手を借りて生命を永らえることにはなった。もう一人では立つこともできず、トイレの世話を叔母がしていた。祖母はプライドの高い人だったから、本当ならそれも許せなかったかもしれない。もはや反抗する元気が残っていなかっただけで。
安楽死制度にはうっすら反対の気持ちがあったけど、いまのところちょっと揺らいでいる。尊厳を保ったまま死んでいけるなら、それはとても幸せなことじゃないか?と言うより、もう生きていたくないと食事まで拒んでいる人を、それでも延命させるのがそんなに美しいことだろうか?長生きしてほしいという周囲のエゴが、本人を苦しめているだけじゃないか?
もっともこんな議論は目新しい話ではない。たぶん自分と同じ考えの人もそれなりにいる。それでも「生きる権利」に比べて「死ぬ権利」は声高に掲げにくい。下手すると悪用されて「生産性がないという自覚がある人は、安楽死を選択しましょう」と命の選別に使われるかもしれない。自分が歳を取ったときに「判断力があるうちに死ぬっていう手もありますよねえ~」と秋波を送られても不快だろう。
それでも治療を拒否する権利くらいは、もっと認められてもいいんじゃないかと思う。祖母のときは否応なしに──病院の方針ですと言われて──点滴がつけられたけれど、本人は最初から嫌がっていた。医療を受けない権利、意に沿わないあらゆる治療を拒む権利、そういうものがあってもいい。
人はいずれ死ぬ。どうしようもない事実としてそれはそうだ。それなら死ぬ間際に自分に施される処置くらい、本人の意志で決められるべきだろう。病院の方針がどうだろうが、周囲が延命を望もうが、死んでいく当人が要らないと言うなら強制すべきじゃない。
「そんなこと言うけど、死の間際になったら誰もがもっと生きていたいって言うわよ」との説も聞く。別に医療を否定しているわけじゃない。生きたい人は治療を受ければいい。文字通り少しでも長生きしたい人には、その意志に応じた措置が取られたらいい。死ぬ権利は、生きたい人を邪魔するものではない。医療の成果を否定するものでもない。
日本国憲法では、25条で生存権を認めている。いまのところ死亡権なるものはないらしい。たったいま「しぼうけん」で変換キーを打った時も「死亡権」とは出てこなかった。「生存権」が予測変換の最初に出るのとは対称的だ。
死ぬ権利が仮に普及するとして、障害になるのは何だろう。死んだ人間は葬式くらいしかお金を動かさない。でも延命の結果、入院し続けるならそこでお金が発生する。だから延命治療をアレコレ勧めるんじゃないの、という穿った見方も、祖母のときに聞いた。病院も慈善事業ではないから、利益が上がるチャンスは逃したくないだろう。医療者を疑いたくはないけれど、「病院の方針」という言葉、そういう意味もあったのかもしれない。生きている人間の儲けも大事だろうが、死んでいく本人の意志、自分の意志で死ぬ権利はもっと尊重されていい。