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消えてく動き

 ある人が「おみそ汁をあっためるときに」と言いながら、何かをつまむような手をした。そのまま手首を90度ひねる。ああ、と思う。この人はつまみ式のガスコンロが頭の中にあって、それが「みそ汁をあたためる動き」になるんだ。
 
 いま住んでいるところは同じくガスだけれど、つまみは回すタイプじゃない。左右に移動させて火の強弱を調節する。だから鍋やフライパンを「温める」ときの手の動きも違う。

 90度くるっと回すような、あの動作はこれから消えていくだろう。
 
 消えていく動作。なにかが廃れていくのにともない、その「動き」も生活から姿を消す。
 
 たとえば、手紙を出す機会が少なくなった。最後に封をするときの、のり付け部分を折り返す動作が消えていく。もちろん「宛名を書く」とか「ポストに投函する」ときの、手の動きも消える。
 
 代わりに「メールを送信するために画面をタッチする」とか「マウスをカチっと言わせる」動きは増えた。人の手は、使うアイテムの変遷によって動作を変えていく。
 
 人の手の無意識の動きは、ふだんその人のしている生活をそっとあぶり出す。みそ汁をあたためるのに手首を回した人は、ふだんそういう台所を使っているんだろう。
 
 他にも「なんか切るものちょうだい」と言うときの動きも、実は人によって違う。手をピースサインの形にして「チョキチョキ」というように動かす人もいる。頭の中にあるのはハサミだろう。ある人は、手になにかを持った形で空を切る。こっちはカッターやナイフだろう。
 
 「鉛筆を削る」ならどうか。世代が上の人なら、ごぼうをささがきにするときのような仕草をする。鉛筆をナイフで削る動き。
 
 それより下の人たちは、だいたい鉛筆削りを回す「ぐるぐる」という動きになる。手元で小さく「くるくる」と動かすこともある。こっちは筆箱に内蔵できるような、小さな鉛筆削りを連想してるんだろう。
 
 世代が変わると、ふとしたときの動きが変わる。当たり前といえば当たり前。でも目の当たりにすると「ああ、こんなところが私たち違うんだな」という気になる。
 
 前に住んでいた部屋はITキッチンだった。みそ汁を温めるのに、そもそもつまみがない。火の調節はすべてボタンでやるので、手は「人差し指で上から押す」動作になる。新しい世代は、これが「鍋に火を入れる」動きになっていくのかもね。

 
 
 むかし中学校でやった遊びで「ジェスチャーでなにかを伝える」ものがあった。お題を与えられた人が、動きだけでそれを表現してみせる。見せられた側は、そこからお題が何だったかを当てる。
 
 たとえば「キリン」というお題が出たら、出された子は一生懸命「首が長い」ことをアピールする。「トイレ」を出された子は、和式に座り込むときの動作をしてみせた。
 
(中学校の個室トイレは、そういえばぜんぶ和式だった。いまなら洋式の動作で、椅子に座るような動きをするのかもしれない。)
 
 中に「告白」というお題があった。当たった男子生徒は、胸の前に両手でなにかを持つ仕草をし、それから腰を90度曲げて、そこにいない誰かに向かってすごい勢いで差し出した。
 
 誰がどう見ても、玉砕覚悟でラブレターを渡す動き。見ていたみんなは笑いながら「『告白』!」とお題を当てる声をあげた。
 
 あのときあれやった子、元気かな。好きな人ができたとき渡したのは、やっぱりお手紙だったんでしょうか。それともメールやラインや電話だったのか。好きな人に「手紙を書いて渡す」動作は、いまも健在なんでしょうか。寡聞にして知らない。
 
 
 みそ汁を温める動きは、これからどう変わっていくんだろうね。もしくは告白するときの仕草は。わたしは今日のお肉を焼くために、コンロのつまみを左右に動かしている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。