「主体性を取り戻すこと」と演劇
何回も同じような痛い目に遭う人は、自分からそれを引き寄せているという見解がある。それは彼らが「以前は被害者で終わってしまったけれど、次こそはうまく乗り切ってみせる」と考え、以前傷ついたのと似た境遇に自ら飛び込んでいくからだそうだ。(小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』より)
この話──つまり「人生における被害者性を脱し、主体性を取り戻そうとする」働きのことが妙に心に残って、それについて考える。
例えば、俳優という職業に就くこと。
彼らは、自分たちが演じる物語の中で様々な運命に出会う。いじめがあり、嫁姑の対立があり、恋愛があり、泣いたり笑ったりする。そこで表現される感情は、どれもこれも現実の人間が体験するようなものだ。時には殺人が起こり、救いようのない別れがある。現実も演劇もそれは変わらない。では、私たちが生きているこの生身の現実と、彼らが演じる物語との違いは何なのか。
それが「主体性を持って(つまり、自分で望んで)そこにいる」という俳優性だろう。役者である彼らは、自分からその物語の中に入っていく。そこで傷ついたり、感情を揺さぶられたりするにしても、それを彼らが選んでいる。好んでその重荷を受ける。そこが私たちと違う。気がついたら世界の中にいて、望んでもいないのにそこにいることを運命づけられている私たちとはそこが違う。望んでいるか、否か。主体性を持ってそこにいるか、どうか。
演劇/現実を、虚偽/本物と定義する人もいるが、そこには賛成できない(哲学者の中にもいる)。舞台の上には、舞台の上なりのリアリティーがあり、それを虚偽とは呼ばない。現実と異なっているのは、そこにいる人々の主体性だ。自らその舞台に上がってくる、その主体的な受動性こそが、演劇の真髄だと思う。
そう考えると、俳優という職業が「創造的」と呼ばれるのは「人生に対する被害者性を脱しようとする」点が、既にとても能動的だからかもしれない。