なんとなくの神様
ジオラマ、ミニチュア、ドールハウス……。現実を小さく精密にコピーしたものが昔から好きだった。好きな写真家は、現実をミニチュアのように撮ることで知られる本城直季だし、もう一人ハマった写真家は、人形を人間のごとく生々しく映し出すリウ・ミセキだった。虚構と現実が曖昧になる地点には、いつだって惹かれてしまう。
時々、現実世界のほうが、精巧なミニチュアに見えるときがある。歩いていて、いかにも昭和の街角のような場所に差し掛かると、誰かが作る大規模な作り物の世界に放り込まれているような、そんな気持ちになる。この風景はきっと「誰か」が昭和をイメージして作った場所に違いない……。時には、工事のときに道路に書かれたらしい「T-143」というチョークの文字を見て「ミニチュアなのに、こんなところまで精密に描かれているなんてすごいな」と自然に思って、すぐ我に返る。
その「自分が、架空の世界の住人になっているような感覚」というのは、何度か味わっているのであって、ジオラマのセットについている「繁華街の人々」という小さな人形を見たときもそうだった。手と足がついた小さな人型のそれは、その日の自分とよく似た格好をしていて、自分がジオラマの中に知らず知らずのうちに閉じ込められたような、そんな感覚になった。怖くはないけれど、現実が音もなく揺らいでいく、奇妙な感覚。
この世界を作った「誰か」がいるとするなら、それはやっぱり神様ということになるんだろう。「神様」と言っても、自分は特定の宗教に深く帰依しているわけじゃないから、すごく漠然とした物言いになってしまうけど。何か大きなもの、人知を超えているもの、敢えて説明するなら、この世界の作者のことだ。それはキリスト教の父なる神でも、イスラム教の神アッラーでもない。願い事をしたからと言って叶えてくれるわけではなく、「汝○○せよ」と命令してくるわけでもない。ただ世界を支えているだけの何か。それを自分は、とりあえず「神様」と呼ぶ。そして、なんとなくその存在を信じている。
それは、信じたところで何の利益もない神だ。天国への切符をくれることもないし、不信心に罰を当てることもない。ただいるだけの神。どうやら世界を作って維持するのが趣味らしく、どこもかしこも精巧に作り込んで、その創造の手は止むことがない。そんなイメージ。
こういう宗教観をなんて言うのか、自分はよく知らない。無神論とは違うし、かと言って○○教と名付けることもできず、信仰とすら言えない信仰。そんな言語化できない神様を感じながら、今日もその世界の中に投げ出されている。