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内面の自由

感情と行動はいつだって切り離して考えたほうがよくて、2つをごちゃ混ぜにして苦しんでいる人を見ると改めてそう思う。どんな最低な考えを持っていても、実行に移さないならそれでいいし、掲げた理念がどんなに高邁でも、やっていることが最低ならアウトだ。

例えば不倫なんかを取ってみても、既婚者が「不倫したい」と思うこと自体は仕方ない。それは「思っている」だけで、誰にも迷惑をかけていない。法律を破ったわけでもなく、婚外子ができたわけでもない。それはファンタジーの領域、考えているだけだ。

だけど世の中には、まるで「そういう考えを持つこと」それ自体が悪だと考えている人がいて、すごく戸惑う。何もしていなくても、そう「思っている」だけの人に「悪だ、汚らわしい、反省しろ」と叩く人がいて、この人は他人にどこまで求めているんだろうか……と考えてしまう。

行動が潔癖なだけでは足りない?すべての人が、内心まで美しくなくてはならない?反社会的なことは「考えた」時点で悪なのか……?

自分はそうは思っていなくて、なぜかと言えば答えは簡単だ。自分もまた、不道徳だったり、反社会的だったりする考えを持つことはあるから。そしてそれは、多くの人もあまり変わらないと感じているから。

人を殺したいと「思った」ことはある。中学の時の数学の先生を、人気のないところで階段から突き落としてやろうかと「思った」ことはある。スカートの短い女の子を見て、まくったら下着見えるのかな、と「考えた」ことはある。嫌いな人をダイナマイトで爆破する「空想」ならしたことがある。でも、どれも実際にはやってない(当たり前だ)。

だから、あなたが「不倫したい」とか「人を殺したい」とか「同僚をいじめたい」とか言ったとしても、それ自体を非難して「お前は悪人だ、裁かれろ、心を入れ替えろ」なんて返事はしない。そう思うんだね、そういうこともあるよね、でもやるのは駄目だ、そこの一線は守ろう。そう返す。

仮に誰かが本当に犯罪を犯してしまったとして、それでも感情と実行は別ものだ。ある人が、どうしても配偶者とは違う人を好きになってしまって、その結果、不倫をしたとしても、悪いのは行為でしかない。好きという気持ちを否定したりはできない。誰かを好きになってしまうことは仕方ないから。でも、その「行動」は法の裁きの対象だ。

「罪を憎んで人を憎まず」の諺は、きっとそういう意味なんだと思う。人を殺したいとか、配偶者とは違う人を好きになってしまったとか、それらの「感情」は何も罪じゃない。私たちが憎み裁くべきは、実際に行われた「罪」のほうであって、感情を裁くことは誰にもできない。

時々「こんな卑劣な考えを持っている人間は裁かれるべき!」と叫んでいる人がいるけど、それは問題じゃない。問題なのは卑劣な「行為」のほうだ。他人の内心にまで踏み込んで、それを変えようとするのは野蛮だ。他人の内面に踏み込んで、あなたはあれを嫌うべきだ、これを好きになるべきだ、なんて言うことはできない。感情は自由だから。

他人に、内面まで潔癖であることを強いる人たちを見ると、そういう理由で違和感を覚える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。