「○○不要論」に思うこと
「ライブハウスなんて必要なの?」の声が、コロナの初期からずっと出ているけど、○○不要論というのは、どれもかなり危ないと思っていて。今日はその話を書こうと思う。
中学生の頃、岩波文庫が嫌いだった。嫌いというより、あんな難しそうな本を誰が読むんだろうと思って鼻白んでいた。当時は、面白くわかりやすく作られた本が好きで、そういうのは大抵、ポップな絵柄を多用したり、イラストで図解したり、ところどころ行間の大きく空いた、オシャレなレイアウトだった。そんな「わかりやすく楽しい」本こそが正義で、それ以外は要らないように思えた。
あるいは、大学まで行く必要があるのかわからなかった。勉強は嫌いじゃなかったけど、さっさと働いて稼ぐほうがいいんじゃないか、そのほうが早くお金になるのに……。そんな風に思ってもいた。だから、大学が必要かどうかと言われても、自分には要らないと答えたかもしれない。
結局、いまは岩波文庫によくお世話になる、人文系の大学院生になった。当時「不必要」に見えたものが、今の自分の生活を包囲している。昔の自分に下手な権力がなくてよかった。不必要と見なしたものを排除する権限がなかったことは、本当によかった。物事の判断がつかないうちは、権力なんて持たないほうがいい。将来の自分の首を絞めることになる。
いま必要なものが、将来も必要ないと見なすことは「私はずっとこのまま成長しません」と言っているのと同じだ。今の生活を永遠に続けることになる。そして「現状維持でいいや」と考えている人は、大抵の場合、衰退の一途をたどる。現状維持にもメンテナンスという努力が不可欠だから、それを怠る人は、まあ当然そうなる。不思議の国のアリスじゃないけど「その場に留まるには走らなければならない。どこか別の場所に移動しようと思えば、もっと走らなければならない」(赤の女王仮説)。
何がいつ必要になって、何がいつ要らなくなるか。そんなこと誰にもわからない。わからないうちは排除しないほうがいい。あらゆる可能性を残しておけるということが、社会の豊かさだ。
だから、ライブハウスも演劇も夜の街も、ちゃんと残っていてほしい。今のところ、それらがなくたって私は生きていけるけど、だからってなくなっていいわけじゃない。いつか好きなアーティストができて、ライブに行きたくなるかもしれない。宝塚にハマって劇場に通うかもしれない。夜の街で働く人間になるかもしれない。
「自分に関係ないから必要ない」は「今の自分に」関係ないだけだ。将来はわからない。そして、永遠に同じ暮らしを続けられる保証がないのなら、あらゆる可能性は残されているほうがいい。いま要らないと思っているもののどれかは確実に、将来必要なものになる。それが変化するということで、人は常に変化するものだから。変わるということは、必要なものが変わるということでもあるから。
要る/要らないの議論には、だから時間軸が必要だ。「あなたや私にとって、将来必要になるかもしれないんだ」という視点、少しでも多くの人と分かち合いたい。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。