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「優しい」話

 人に優しくするのってちょっと怖い。なんでそんなことを思うのかよくわからない。
 
 短期的に見れば、人に親切にしたり、好意から便宜をはかったりするのは「損」になる。
 よかれと思って尽くした結果、相手から手痛い裏切りを受ける人もいる。相手は助けられたことをそもそも恥だと思っていて、自分を救った人に感謝するよりむしろ恨んでいる。こんな光景は珍しくない。
 親切心からやったことを、損得勘定に組み込んで利用される人もいる。一度、好意からやったことを、次も、そのまた次もタダでやってくれと駄々をこねられ、してあげなければ悪人呼ばわりされるような。
 
 損得で見れば、「優しい」は損であることが多い。誰かによくしても見返りが返ってくるとは限らないし、報酬を求めてするなら、それは優しさとはちょっと違う。
 でも多くの人は、親切にしたらしただけの返礼をどこかで求めている。これは本当の優しさとは違う。
 
 では本物の優しさとはなんなのか。
 こういう問いはすごく困る。昔からある哲学のパラドックスだ。
 
 既に知っていることは、知っているのだから知る必要がない。
 まだ知らないことは、知らないのだから知りようがない。
 
 このややこしい話を喩えるなら、こんな感じだ。
 ある日、偉い人に呼ばれて「アピステトカ」を見つけてこいと言われる。アピステトカが何かであるか、みんな知らない。知らないものは知らないのだから、見つけようがない。まだ知らないものは、見つけたところでそれだとわからない。
 あの鳥のことかもしれないし、空気の別名かもしれないし、神の異名かもしれない。何ひとつわからない。アピステトカに出会っても私はそれだと気づけない。知らないことは知らないのだから、これからも知りようがない。
 
 だから「本物の優しさ」について考えたところで、それは雲を掴むようなものだ。何が優しさなのか、いまいちよくわからない。わからないものを見つけ出すことはできない。
 
 でもなんとなく、こうじゃないかと思うことはある。
 優しさは損得勘定と相性が悪い。「他の人から親切にされるために、他人にも親切にしなさい」みたいな「情けは人のためならず」式の考えは、本当の優しさとは違う。誰かがどこかで見ていることを期待して発動される限り、そこには損得勘定がありそうだ。
 誰か見ていて、私をいい人だと思ってくれないかな、とか。好意に気づいた相手が、私に感謝してくれたらいいな、とか。
 でも本物の優しさはきっと、そういうことではなくて。
 
 誰かが見ている、誰かが気づいてくれると期待しない行為。その優しさに相手が気づかず、むしろ忘れ去るのを望むような。自分を見てほしいとか感謝してほしいとか、こういう感情を超えて、純粋に発動される利他性。
 
 それは例えば、私たちが毎日のぼる朝日に感謝しないように、自分たちを生かしている空気にいちいちお礼を言わないように、意識にのぼらないところで成される優しさなんじゃないか。
 そうして意識にのぼらない以上、本当の優しさになんて、誰も気づくことはできないんじゃないか。「こんなのあたりまえ」と思っていることの中にこそ優しさはあって、でもあたりまえだと思っているから見えないのだ。
 
 あまりに近いものは目に入らない。既に知り過ぎていることは、知り過ぎているゆえに知ることができない。
 
 一切報われることのない、純粋な優しさ。こんなのは神の領域だ。誰からも何も返ってこないしむしろ忘れられるけど、それでも人は優しくあるべきだ……なんて、なかなか言えない。
 多くの宗教でも「善行をなせば天国に行ける」とか「人に優しくすれば徳が積める」と、報酬を約束する。そこに本物の優しさはないと、どこかで知っている。


「メノンのパラドックス」とも呼ばれている。大哲学者ソクラテスに、青年メノンが一矢報いる。

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。