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【心の解体新書】14.閑話休題~枕と笑いと怪談

前回

心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

今回は幽霊をモノマネすると人は怖がるのかの最後です


 心のメカニズムを解き明かしたいという動機は、方程式をみつけたいわけではないのだ。方程式に置き換える試みはしたいが、そこに到る経緯を愉しみたい。解けると仮定するのであれば、どのような応用ができるだろうかと考えることは筆者が物語を書く際に登場人物の行動原理に拘ることと深く関係している。

 「人はなぜ幽霊を怖がるのか」と「人はなぜモノマネを観て笑うのか」という二つの課題を解くことは「恐怖」「笑う」というまったく別のベクトルに見える心の動き(=運動)は、心の状態を数値化し、一つの方程式に当てはめて求められる動きの幅(=運動量)よって「恐怖」「笑う」は発現する(=傾きの結果を得る)ことにつながり、心という目に見えない、それでいて人が「感じ、認識する」ことができる運動の法則性や習性を解析するのに役立てることができ、心というものの本質に近づくことができるかもしれない。

 実際、筆者にとっては大きな発見があった。文章で人を怖がらせることはできるが笑わせることは難しいというのは、創作や表現をする近しい人たちの共通の認識だ。一方で軽快で明るい歌を歌う人は楽し気に見えるが、マイクパフォーマンスで笑いを取ろうとすると「暗いキャラ」や「卑屈なキャラ」を演じて話をしたほうが笑いが取りやすく、逆にしっとりと物憂げな歌を歌う人は「明るいキャラ」や「無駄に前向きなキャラ」を演じることで笑いを取りやすい。

中島みゆきさんの歌とラジオパーソナリティのギャップは大好きです

 人の心は目の前で起きているギャップに笑う傾向にあることが考えられるのだが「恐怖」という心の動きもまた、明るい人が急に怒り出したり、口数の少ない人が狂ったように笑いながら汚い言葉でまくしたてながら地数いてきたら、それは恐怖でしかない。つまりギャップで人は怖がるのである。

 笑いが緊張から緩和でおき、恐怖が緩和から緊張でおきる。それぞれの枕、仕掛けてして笑いは「やや楽し気な話」から入り、怪談も「昔から女の恨みは怖いと申します」や「こうした人里離れた村には得体のしれない風習があったりします」との前置き=によって助走をつけると、よりメインディッシュが際立つことも理解に難しくない。

ホラーのイメージがない人がやるからより怖い番組

 多くの人が経験していることだと思うが、数学や物理のような論理的思考を育成する場というのは、心構えが必要だし、一度理解がついて行かなくなると緊張の糸が切れてしまい「たいくつ」を感じてしまう。授業の面白い先生、講師というのは、生徒の緊張が切れ始めていることに気づくと、或いはそうなる前にちょっとした雑談を交えたりする。そして閑話休題――本題にもどってできる限り生徒が集中できるように流れを持っていく。
 逆に「つまらない先生」というのは授業は単調で緊張を保つのが難しく、授業が終わるまでに眠気と戦わなければならない。
 ところが職員室で質問などしようものなら、この先生は突然キャラクターが変わったように楽し気にこちらの理解力に合わせた説明をしてくれたりする。そして授業が上手な先生ほど職員室では横柄であったり、気の抜けたような説明しかしてくれなかったりする。

 小学生の頃から職員室に入り浸っていた筆者は、人間性とは多面的であり、1対1が得意かどうか、大勢の生徒に笑ってもらえることを愉しむタイプであるかどうか、教育者という面と仕事として学校に通い、職員室と教室ではそれを使い分けている「みんなひとりのにんげん」だという認識を早くから持つこととなった。
 小学校の頃は感覚として認識し、中学生で好奇心の対象になり、高校の頃には実践、使い分けの段階と変化し、すなわちそれは論理的な理解と実践。感覚による情報収集、本質を理解するための観察方法の確立、仮説の実証という実に可愛げのないロジックが働く「小賢しい子供」だったことは認めざるを得ない。筆者が教師であれば警戒すべき生徒の一人だ。

 さて、筆者は常々思う。何も気にせずに健やかに過ごせるのが一番だと。ところがどういうわけか筆者にはそれが難しい。時間があれば考えてしまう。なければないで、考える時間を作ってしまう。こういう場がまさに作ってしまっている「考える時間」なのだが、【心の解体新書】が誰かの役に立ってくれることを切に願いながらも、それ以上に自分の抑えることのできない好奇心を満たすため、つまりはだれの為でもない動機でこうして文章を書き、そのために調べ物をし、思考実験を繰り返す。
 こんな経験はないだろうか「みんな笑っているのに何が面白いのかわからい」とか「彼がなぜ暗いところをそこまで怖がるのかわからない」とか「人前に出ることを嫌がるのかわからない」とか。もちろんその逆もしかり。なぜ面白さが伝わらず、怖さが伝わらず、嫌だということが理解されないのか。

大喜利は瞬発力の笑いとじわじわ来るもの、何が好きか、何を笑えるのかは見る人で差が出る

 これは知識のギャップに大きな原因があるものの、根本的に人が心を理解することを「人の心なんでわからないのが普通だ」とあきらめてしまっていることに問題があるのだと筆者は考える。人類の歴史は戦争の歴史、それが人の本質であるのだから戦争のない世界など実現は不可能だという考え方に似ている。理解できないことと理解しようとしないことは、現象は同じでも、そこから生まれる結果が違ってくる。
 筆者にはそれぞれに最適解を求めようと努力し、そこには人の可能性を信じようとする姿勢がある。つまり信じてはいないまでも信じようとし、そのために必要なことをしようとする。これが理想と現実の正しいあり方だと考えている。

 居酒屋で「なぜ人は幽霊を怖がるか」という珍味を口にして、どうにかそのレシピを解析したくなった。これは好奇心がなせる業で、建設的なことをしようとしているわけではない。しかし「幽霊を怖がる理由」を考えることで見えてきたのは、存在しないものを怖がる、怖いと思うから存在しないものをイメージし、幽霊というアイコンを産み、それが社会の共通認識となり、いないものが存在するという矛盾そのものが恐怖の正体であるという考えに筆者はいたり、幽霊が半透明で描かれるのは無意識の死への恐怖と理解不能な死という現象への「みなし」の具現化であり、人が生命の危険を感じるのはもはや人そのものに限定されるに近い現代においては、人への恐怖の代替物、それは鏡のようなものであると結論に至ったことは、ともすれば戦争はなくならないという幽霊を退治するための化学方程式になるのではないか。なってほしいと願いたくなる。

 では果たして戦争という緊張状態が解かれたら、人は笑顔になれるのだろうか。笑ってそれまでの緊張を解くことができるのだろうか。今、世界は自由を失いつつある。それは行使されるべき自由ではない差別に対する制限である。何かを蔑みそれを笑いに換えることは許されない。それはわかっていてもこの息苦しさはどこかにエラーがあるのではないかと筆者は考える。

 モノマネを笑う人の心は素晴らしいと思う。言語化すれば犬はワンワンと鳴きバウバウ(Bow Bow)と鳴く。これがある意味言語の限界であるが、犬のモノマネは世界共通で、怒られた時の犬の目をモノマネしたら、どんな国の人もそれを観て笑うだろう。
 嘘をついて人を陥れ、何かを手にしても、人の怨念は亡霊として現れその悪事は必ず暴かれ、裁きが下るだろうという認識も国や民族を超えて共通の認識であり、人は姿なきものに怯え、罪悪感にさいなまれる。

 観察し、記憶し、それを伝えることで栄えてきた人類だからこそ幽霊を怖がり、モノマネを笑い、それを支える脳の機能が補完能力であるというのが【心の解体新書】の結論となる。

単に思い込みではなく、人の脳は「あるべき姿」に情報を修正し判断する

 人は幽霊のモノマネを観て、笑うことも怖がることもできる。もしもあなたに所縁があり、後ろめたい気持ちのある「幽霊」のモノマネを見たら怖がる、畏れるとなり、それがないあなたは「幽霊」の共通イメージと照らし合わせて「うらめしや」と来るかと思ったら「お・も・て・な・し」とジェスチャーをしたら笑うだろう(いや、笑えないか、笑ってよ)

 さて、筆者はトップ画像に滝川クリステルさんの画像を使い、ここに到る伏線を張ったのですが、これがあるとないでは、多くの人に笑ってもらえるかどうか(怒られるかどうかも含めて)、笑いとは難しいのです。いかに落語や古典的な漫才が枕を大事にしているのか、そういう視線で笑いや恐怖を観てもらえるようになっていただけたら、筆者としては恐悦至極。

 「恐」で「悦」が至極って面白いのか怖いのか。そんなことを考えると眠れなくなる人が増えてくれますように。

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