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アンチテーゼ~悶々なんていらない

 自分の傲慢さに向き合うのは難しい。

 僕は人の役に立てるとうれしい。でもそれは、人のためではなく、自分のためだというエゴを伴っていることを自覚している。

 あなたのために、これだけしてあげているのに! とはならないまでも、頼ってくれればいいものを……と不機嫌になることはある。

 ひとつの言葉、ひとつの行いに、人はどこまできれいでいられるのかについて、あれこれ考えるうちにたどり着くところは、結局のところ「好きにするしかない」ということで、なぜならそれは、そうでない言葉や行動には顕在的にも潜在的にもストレスを溜めてしまうから。

 そしてうっかりそれがこぼれると、大惨事になったり、乱反射を起こして収集がつかなくなることがある。

 あるのだけれども、大概は事なきを得るか、喜んでもらえる。だから止められない。ある種の脳内物質が僕を気持ちよくしているのかもしれない。それをよしとすることは傲慢なのだろうと最近思うようになった。

 その一方で、この手のことを誰かと議論することに、いまひとつ慎重になれない自分がいる。多少のリスクを背負ってでも、いいたいことは言うべきなんじゃないか。或いは知って欲しいことを言語化したほうがいいのではないかと思い、ついついそれをしてしまう。

 これは傲慢さとはまた異質の欲求なのかもしれないが、僕はそれについてここのところ悶々としている。もだえて、もてあましている。

 我ながら度し難いと思いつつも、やはり、引っ込められない自己顕示欲のようなもの、或いは無自覚であるだけで、それは自己顕示欲そのものなのかもしれないが、『わたしはこう考える』は、ここぞというときのために、ある程度発信しておくことは、わりと必要なのではないかという仮説のもとに、僕は数少ない機会を逃さないようにしている。

 それはなぜかといえば、『ここぞ』というときに、一言でまとめられるだけの言葉の力を僕は持ち合わせていない――言葉が弱いのだ。

 楽しい会話の中で、気の効いた言葉を一言添えるだけで、より楽しくなることがある。これはおかしな話だよね、とか、これはひどい話だよねという歓談のときに、「それは~みたいなものだね」と言ったオチなのかサゲなのか、そういうことは、自分が普段から、少し皮肉を込めて面白いことを言う人だという環境を作っておかないと「変にちゃかして気分が悪い」などということになりかねない。

 僕は見た目や雰囲気が「面白いことを悪意なく言える人」属性をまとっているとは思っていない。常日頃から、近しい人にはそれを続けているからこそ、多少、激しいことを言っても、赦されるというか、わかってもらえる、笑ってもらえる。

 同じように苦言、提言、自分の考え、思考方法を披露する場合にも、日ごろからある程度、そのようなことを発信しておかないと、うっかり口論になってしまったあとに、修復が困難になってしまう場合がある。

 そしてこれまた同じように、一言発しただけで、周りを納得させるだけの言葉の強さを僕は持ち合わせていないという自覚があるからこそ、出来る限り、発言する機会には、発信するように心がけるようになった。

 以前は余計な摩擦を生むことを故意に避けていたし、僕自身、鈍感な人間だという自覚があり、自戒があるだけに、鈍感ゆえに気をつけているからこそ、一見すると、気遣いの出来る人に間違われたり、期待をされてしまうのだけれども、そんなんじゃないんです。

“あとで悶々とするくらいなら、その場で言ってしまったほうがいい”が可能なキャラなら、それでいいが、まぁ、僕は悶々としないために、複線ではないけれども、常に発信するほうが向いているのかなと思うわけです。

 そしてそう思う自分は、結局謙虚からではなく、傲慢さから謙虚に嘘をつく人ではないかと、そう考えるとやっぱり悶々としてしまうので、困ったものなのです。

 本当、悶々なんていらない。

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