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心の隙間

”心の隙間”なんて言葉がある。或いは魔が差したって言い方もそうかもしれない。“うっかり”とは違うニュアンスで、うかつさよりも弱さとか脆さを指し示す言葉なのかと、僕は思う。

 隙間があるってことは、本来埋まっているべきものが、そこになかったということなのか。或いは最初から大雑把だったり適当だったことから、当たり前に隙ができてしまったのか。

 いずれにしても落ち度であったり、不甲斐なさであったり、きめ細かさの欠如だったり、つまりはちゃんとしていないから隙間が出来てしまい、その隙間に何かしらが入ってしまったことで起きるトラブルの言い訳ということになるのだろうけれど、僕は、そう、この心の隙間や魔が差すという現象こそ、とてつもなく人間らしく思えるのです。

 たぶん、それが、僕のダメなところなんでしょうけれど。

 形あるものはいつか壊れる。だからこそ形あるうちに出来る限り最高の状態であるべきだ。

 これはちょっとした人生論になるのかもしれませんが、僕は完璧を求めることを、どこかで躊躇している。或いは怖がっているのかもしれない。

 いや、もう、これがどうしようもなく言い訳じみていて、じみているどころか、言い訳そのものなのだと、僕はわかる。わかるが、それを認めて従う気にはなれない。

 わかっちゃいるけどやめられない。

 いやいや、それほど高尚なものではなく、ただ単に低きに流れているだけなのだと、そう思う。そう思うけれども、人が重力に『一般的には逆らえない』ように、魂は常に引っ張られているのだと僕は思います。

 重力は心地いい。その心地よさは大地の安心感。でも人は空を見上げ、星の海に憧れる。おかしな話です。人は、命は海から生まれたのだとしたら、帰巣本能が働くのであれば、空ではなく海であるはずなのに。

 僕は空を跳びたいとは思わない。でも、この心地よい重力にいつまでも身を委ねようとも思わない。逆らいたいときに逆らい、委ねたいときに沈む。それが自由というものだと、なんとなく感覚で理解している。

 僕の理解が一般的であるかどうかは別にして、隙間というのは、そのような抗いたいと沈みたいの合間、ベクトルがゼロの状態のときの状態を示すのだと僕は考える。

 いわゆる無重力状態のときに、このまま横にどこまでも滑っていけるかもという錯覚、願望、気の迷い。どこまでもいけそうで、しかし上がる力と落ちる(ひっぱられる)力が均衡しているのは、ほんの一瞬であるはずなのに、その一瞬がどこまでも続くような、或いは自分でなんとかできるような気になって、気が大きくなって、余計なことをしてみたくなる。

 隙は自分で作ったもの、魔は自分で呼び込んだもの。

 それを自覚した上で、ようやくそこから得た経験を自分のものにできる。なにかのせい、だれかのせい、魔の悪さ、とか、しかたないとか思ってしまったら、何一つ得られないし、何一つ前に進めないし、景色は変わらないのだと、僕は思うのです。

 ここまで、なんかえらそうなことを言っているようですが、ようは失敗だと思うな、オッパイだと思え! ってことです。

 ただ失って負けたのではない。欲望にかられ、欲をかいて、経験を積んだんだと『自分を騙せれば』、それができないよりも、きっと人生はより、豊かなものになるのだろうと、そういう希望ぐらいは持って生きていける自分でありたいと、そう思うわけなのです。

 そう思える自分でありたいのです。

 あなたの心の隙間を埋めるのは、さて、どんな誘惑なのでしょうか?

 まぁ、僕は痛風持ちなのですが、誘惑には弱いです。とても、とても。


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