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みんな、記憶ってどうしてる?

『みんな、記憶ってどうしてる?』って問いに対して、どうやって記憶をするか、いわゆる記憶術を沿うてした人、ごめんなさい。
 僕はたぶん、記憶術なんて人に教えられるほど記憶することが得意ではないし、この問いは記憶した事象をどうしているか、どう扱っているかっていう問いなんです。

 今日は連休の真ん中日曜日、noteをなんか書かなきゃって思ってさて、何を書こうかと考えたとき、僕の脳は記憶をサーチします。自分が最近体験したこと、その中で面白かったこと、或いは疑問に思ったり、納得がいかなかったり、そういうことをサーチします。

 これ、よーく考えてみるとあまり日常的な行為ではないですよね。noteやブログに定期的に何かを書こうと考える人の記憶の使い方。

 そう、ここでは記憶の使い方について話をしたいと思います。

 僕はたぶん記憶をすること、固有名詞を覚えたり、日時や場所、映画に出ていた役者の名前や製作者の名前、そういうことを記憶することってめちゃくちゃ苦手なんです。
 しかしよーく考えてみると苦手ではなく、そもそも記憶をしようとしていない。

 人間の脳には意識的に何かを記憶するってことと、無意識、視野にはいったものをうっすらと記憶する機能が常に働いています。

 よくお酒を飲んだ後、記憶をなくすなんて言うのだけれども、あれは脳科学的にはそもそも記憶をしようとしていない。記憶回路をOFFにしている状態なので忘れてしまったのではなく、記憶をしていないというのが正しいらしいです。

 はい、ここが僕の限界で確実にその証明や説明、研究の結果についての詳細情報を覚えようとはしていない。だけれども「酒で記憶をなくす」ではなく、記憶をしていないという事実だけが、可能性だけが重要で、その知識は日常の会話の中や人間関係で大いに役に立つわけで、つまり僕は使う情報の記憶だけを覚えているということになるわけです。

 この知識(情報)は使えそうだ。

 そしてそれを僕は割と高い頻度で使います。つまり僕は記憶を使う頻度が高い、使う頻度が高い記憶をすぐに引き出せる場所に置いておくことができているということになります。

 よくそんなこと覚えているね?

 などということが僕には多々あります。何気ない日常で、飲みの席で起きたこと、会話を僕はよく覚えているのですが、それはつまりその記憶を割と使っているってことなんだと思います。

 物語を書いたり、こうしてnoteを書くってことは常にそうした記憶にアクセスをし、またお酒の席での雑談として「笑いが取れる記憶」に四六時中アクセスしています。

 僕は記憶することは得意ではないが、記憶を使うことは得意だと言えます。

 こんなことはないでしょうか?

 好きな映画、楽しいと思った映画、面白いと思った映画のストーリーや登場人物について以外に忘れていることってないですか?
 そしてそれについて思い出してみて下さい。その映画について誰かと話したことがありますか?
 つまりその記憶についてアクセスしたことがありますか?

 逆にとてもつまらない映画、わけがわからなかった映画について、実はよく覚えているってことないですか?
 思い出してみて下さい。その記憶について誰かに話したことがありませんか?

 おいしい料理、どうおいしかったか、どんな器だったか。どこで食べたのか。その記憶にアクセスして誰かに話したり、こうしてnoteに書いたことは覚えているけど、それ以上に不味かった、口に合わなかった、或いは店員の態度や衛生面で気になることがあり、その記憶にアクセスして誰かに話したことと、おいしい記憶、どっちのほうが覚えているか、考えてみて下さい。

 そしてここで僕はひとつのことに気が付きました。

 僕は人よりも記憶にアクセスする頻度が高く、その中でも良かったこと、面白かったことについてアクセスする率が高い。悪い話よりもいい話をしたい。そして疑問に思ったことを話したい。

 僕という人間を形成するのは、この記憶へのアクセスの傾向が決めていて、脳はそれをルーティン化して自動的に、つまり無意識に記憶のアクセス優先権を面白いこと、楽しいこと、疑問に向けている。
 それはアウトプットとインプットの両方に影響を与え、映画を見たり人と話をしたときに、僕は常に良いところを探し、記憶しようとする。悪いところはそのいいところと紐づけられた状態、つまり良い記憶の付録として整理される。

 するとどうなるか。

 この映画の面白いところはこういうところだ。しかし改善点がないわけえではない。人には良いところを説明し、悪い点を補足する。そういう習慣が付きます。
 これ、良いと悪いが逆だと物事の悪いことを記憶することを優先して良いことは悪さの減点になる。すると世の中の彩りはどうなるでしょうか?

 生物としては危険=悪い条件、状況を優先して記憶して生存率を上げることは必須です。これを飛躍して考えると日常的な安全を確保している人類にはこの機能ってすごく限定された使い方しかしないのではないでしょうか?

 ふむ、ここは難しいところです。

 疑問点がいろいろと残ります。

 だからこの考え方を僕は記憶し、常にアクセスし、どうなんだろうと考え、その助けになる情報に対して敏感になる、アンテナの感度が上がり、それは好奇心という言葉で表すことが可能で、僕は好奇心旺盛な人間というキャラクターになるわけです。

 という仮説を思いついたので、noteに記録しました。

 記憶をどう扱うのか、それが人間性に与える影響は小さくない。

 僕はきっとこの話を誰かとすることになります。もし、ここにコメントをもらえたらとても喜びます。

 議論ではなく、可能性の洗い出しをしたいですね。まだ議論するにはリソースが不足しています。

 ちなみに昨日はライブイベントでペペロンチーノか茄子とアサリの和風パスタが選択できたのですが、自分が選んだペペロンチーノの味よりも、隣の人が食べている茄子とアサリの和風パスタのおいしそうな記憶の方が強く残っています。

 記憶って面白いですね。

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