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四月会談

冒頭いきなり誰得な情報をさらしますが、御多分に洩れずわたくしもステイホーム出来ない方のしがない、いちパートタイマーです。勤務時間は短縮されたけれども、業務内容はコロナ禍以前とは変わらないもんだから、日々目まぐるしく、通常よりも疲労感が増し増し。様々がシレッとイレギュラー化していくこの感じ。

そんな身の振り方に困る毎日、皮肉なことに、今年の近所の桜は本当に本当にきれいだった。きれいを通り越して、生々し過ぎるというか、春先の薄曇りのぼんやり寒い空気が、そこだけパキッと輪郭がハッキリしていて、陳腐な言葉になるけど、その正しい佇まいにクラクラした。お花見は出来ないけれど、その桜を眺めながら駅まで歩く事が楽しみだった。そして気のせいかもしれないけれど、散るのが例年より遅くなかったですか?私の近所だけでしょうか。

大島弓子さんのエッセイ漫画にあるエピソードで(タイトルは何だか忘れてしまいました……すいません。)大島さんが幼い頃、大叔母様をお誘いしてお花見に行くのが好きだったそうで、大叔母様に「桜って何度みても遠い気がする」と言い放ったそうな。この名言を思い出すのもこの時期。

そして地味にとっちらかったままの部屋の床には、本棚に戻していない本たちが数冊。まじめに読むわけでもないのに、なぜか戻せない。スマホやハンカチ、ボックスティッシュと同等にそばに置いておきたい本たちなのです。フィオナタンの本、去年の暮らしの手帖数冊、映画秘宝の最終号(復刊おめでとうございます。)、 パリ,テキサスのパンフレット。私はフィオナタンの写真を見るのは勿論好きだけれど、思い返すのがもっと好きで、このポートレイトはこうだったよな、ああだったよな、などその時の季節、温度、時代の空気、周囲の音、その人の声とかバックボーンを勝手に想像していると自然と満たされていくから。

多分、その本を目につくところに置いておくことで自分の平穏を保ちたいんだと思う。パリ,テキサスのパンフレットもそう。気の遠くなる喪失感や孤独を埋めるには、どうすればいい?亡霊のようになってしまった肉体に、ゆっくりたましいが宿っていく過程をトラヴィスは惜しげも無く私にみせてくれる。

大事な人たちにとって自分がどう動けばいいのか、トラヴィスは行ったり来たり、不器用に、でも確実に距離を縮めていく。某映画アプリのレビューでも記載したけれど、トラヴィスやジェーンを「勝手だ!」と切り捨てられない歳に、私はなってしまったと無責任に思ってしまう。

そんな春の始まりと、半ば、そして終わり。見通しの立たない不透明な日々でも、ちゃんと季節が過ぎていく。


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