ヌルヌル話法の特徴と根本原理
「ヌルヌルうなぎ」の多発
ニー仏さんが以前、ヌルヌルとした話し方で延々と不毛な議論をする人について語っていた。
https://note.mu/neetbuddhist/n/n50bb3a743a2c
8月後半に「『なんで宿題やってないの?』という発言の意図を発話者自身が案外自覚できていない」という内容の連続ツイートをぼくはしたのだが、それがバズってTwitterのフォロワーが3000人から6000人以上に倍増した。
「なんで宿題やってないの?」理由を聞きたい?宿題をやらせたい?
それ以来、今までは半年に一人くらい変な謎がらみをしてくる人がいただけだったのが、フォロワー数通りの倍増に留まらず、体感10倍以上になった。週に何人かはそういう「ヌルヌルうなぎ」みたいな人と出くわすようになったのだった。
ヌルヌル話法の特徴と根本原理
ニー仏さんはヌルヌルした話し方をする人の特徴を以下のように述べている。
自身の主張の矛盾点や事実関係の認識の誤りを指摘された時に、そのことは完全にスルーして(つまり、訂正や謝罪や再検討などはいっさいせずに)、「じゃあこれはどうなんですか?」と、とにかく無限に新しい「論点」をひねり出して相手にいちゃもんをつけ続けることで、徹頭徹尾、自身を「問う側、論難する側」に位置づけ続けるというスタイル
非常によく見る。こういう人と真面目に対話しても本当に不毛だ。そして、この手のタイプの人は他にもいくつかの共通の特徴を持っているように感じられる。そこでニー仏さんのヌルヌルうなぎ概念をぼくの方でもう少し拡張させてもらってその特徴をまとめてみよう。
【ヌルヌル話法の特徴】
1.質問に答えない、もしくは、何かを答えてはいるようであるが、実は質問に対する答えに全くなっていない
2.自身の主張の矛盾点や事実関係の認識の誤りを指摘されてもスルーする
3.自分が用いている単語の定義を明らかにしない、無断で事後的に変更する
4.文の属性を明らかにしない、無断で事後的に変更する
5.主語や目的語の省略を多用し、省略内容を事後的に自由に補完できる余地を残す
6.指示語を多用し、その指示語が指し示す内容が不明瞭であったり、複数の解釈が可能であったりする
7.わざわざ対話相手が理解していないであろう特殊な意味や文脈をもつ難解な単語や文章、言い回しを多用し、相手からその言葉の意味の確認をなされると「こんなことも知らない人間は話にならない」と相手を蔑む
ざっとこんなものであろうか。きっと細かく考えればもっとたくさんある。とにかく、ヌルヌル話法の根本原理は以下のものとなる。
【ヌルヌル話法の根本原理】
自分の主張の意味の確定を避け、状況に応じて自分の主張内容を議論相手に無断で事後的に変化させたり、自分にとって都合の悪い議論をスルーすることで、自分の主張への批判を無効化する
他人を批判すれば、自分に対しても反論、批判が返ってくる可能性は当然高まる。それは批判をした人間が引き受けるべき当然の責務であるとぼくは思っているのだが、ヌルヌル話法は自分を完全に安全なポジションに置いたまま、一方的に相手を批判できる。
ヌルヌルは自覚的なのか?無自覚なのか?
「私の言葉の真の意味は私だけが知っている。さあ、私の意図を当ててごらんなさい。私が正解、不正解を判定してあげよう。真理はいつでも私の側にある」
ヌルヌル話法の話者はしばしばそのように出題者のポジションに入る。そんな謎クイズに他人を付き合わせないで、なるべく誰が聞いてもスムーズにわかるような言葉遣いで、きちんと意味を確定させながら話をしなさいよ。そして、そうお互いが全力で努力をしたって誤解、誤読はつきものなので、相手から意味を確認、確定させるための質問を受けたら、それにはきちんと答えなさいよ。そんな風にぼくは思うのだが、そもそも自分でも無自覚のうちにヌルヌル話法を使っている人のほうが多いのだ。本人にヌルヌル性を指摘しても、相手はこちらが何を言ってるのか全く意味がわからない、という反応をする。
その点、確信犯で自覚的にヌルヌルさせている連中は、実はまだ話が通じる。彼らはわかっていてやってるから、こちらの批判の意味がわかる。でも無自覚なヌルヌル話者は自分の正義を心の底から信じ、ヌルヌルを指摘する側にこそ問題があると心の底から思い込めるから性質が悪い。悪事を働いている自覚なく正義の戦士をやっている人間ほど派手に暴れまわる。
心を守るためにヌルヌルする
無自覚なヌルヌル話者の一番の目的は建設的議論を行ってお互いの知見を深めることではない。自分の正しさを確信し、自己理想に近い状態のセルフイメージを死守することにある。そして、自分がそのような欲求に突き動かされてヌルヌルとのたくっているという自覚は全くない。このような姿勢については「被害者ポジション」についての過去の連続ツイートにも少し書いてある。自分の心を守るために身体反応として粘液が分泌されヌルヌルしてしまう。
ヌルヌルと話をし続けられていれば、自分の発言の責任を引き受けなくても、自分の正しさを信じていられる。だから、周りからヌルヌルしていることをきちんと問い詰められる環境に身を置いていない人の場合、ヌルヌル話法をやめようというモチベーションが生まれず、一生、ヌルヌルライフを送る。
ヌルヌル話者は卑怯者?未熟者?
ヌルヌルさせないでいようと思えば能力的にはできるのに、意図的にヌルヌルさせている人達、確信犯で意識的にヌルヌルさせている人達は議論のルールを破壊する「卑怯者」といえる。
一方、無自覚なうちにヌルヌルしている人、ヌルヌルしないようにしてもヌルヌルしてしまう人、そもそも自分がヌルヌルしている自覚すら持てない人は、一人前の大人ではない。きちんと自分の言動の責任を引き受ける能力が未発達な半人前の子どもとして扱うしかない存在であり「未熟者」と言えよう。
ヌルヌル話法撲滅運動
確信犯の卑怯者はもう社会の害悪であるとしか言いようがないのだが、半人前の未熟者にも本当は他人を批判するフルセットの権利を与えるべきではないとぼくは思っている。まだ彼らに銃火器や包丁は早すぎる。自分の言動の責任を引き受けられない人間が勝手に社会正義の体現者として無責任に暴れまわることを許す気にはなれない。
そういうわけで、ぼくはわりと時間が許す限り、Twitter上の謎がらみしてくるヌルヌル話者に対して、そのヌルヌル性をずっと指摘し続けている。もちろん、本人自身は滅多に気づくことができない。(それでも時々、気づく人が現れて、そのときにはぼくも感動する。)
だが、そのやりとりをタイムラインで見ている他の人間は、他人事だからこそ、多くのことに気づくことができる。彼らはぼくのタイムライン上でのたうち回るヌルヌルうなぎを見て、「自分はうなぎになりたくない。人間らしくありたい」と脱ヌルヌルへのモチベーションを高めるのである。中にはヌルヌルうなぎ側に感情移入する人も出るのだが。
大人のための国語セミナー
このヌルヌル話法問題は、ぼくが10年ぐらい前から取り組んでいる「大人のための国語セミナー」というプロジェクトのテーマに関わる。心と外の世界をつなぐインターフェイスが言葉である。言葉がおかしくなっている人は、たいてい心の中もおかしくなっている。心の表れとして言葉がある。きちんと自分の言葉の意味を確定して話をすることができることは、真剣になにかについて話し合うときの基本であり、標準語のようなものだ。少しでもヌルヌル話法を世の中から減らすことで、元ヌルヌル話者の心の中もすっきり整理されるし、他者との間に建設的な議論をできる人が増える。そんな世界にしていくための脱ヌル政治運動をぼくはやり続けているのである。
2021年に開催したヌルヌル話法に関するセミナーのアーカイブ受講ができます。興味のある方は下をクリックしてください。詳細がご覧になれます。