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ないものはない。だけど、「自分らしさ」は変わり続ける

どの瞬間を切り取っても、誰かと比べても、自分に「ないものはないし、あるものはある」。それなのに、人はなぜ「自分らしさ」を探し求めるのでしょう? いつになったら「これが自分らしい」と確信できるのでしょうか。

ある日の昼下がり、アメリカ製のお菓子「ダークチョコレート ピスタチオ」を手にとりました。塩気のあるピスタチオに、ダークチョコがコーティングされています。期待に胸を膨らませ、丁寧に切れ目から開けようとしました……が、開きません。袋がしっかり密着しすぎて、手では無理そう。素材的に、はさみがないと突破できそうにもないです。さすがアメリカ、そう簡単には掴ませてくれません(ドリームではなく、ピスタチオの話です)。

さて、あなたならどうしますか? イライラして投げつける? 「はさみを使ったら負け」と意地になって端からつついてみる? それとも「今日はツイてない」と落ち込む? いろいろな反応があるでしょう。私の場合、開かない袋を前にして、苛立つでもなく、落ち込むでもなく、すんなり受け入れることができました。これは私が特別寛容なわけではなく、「外国製のお菓子だからね」と、妙に納得させられたからです。むしろ個性でもあり、なんだか愛おしく感じるのです(ちなみに、ストックもすぐなくなるほど、このお菓子が好きです)。

では、これが日本製のお菓子だったら? 「えっ、日本のお菓子なのに?」と驚きと落胆が押し寄せたかもしれません。「アメリカらしさ」があるから受け入れ、「日本らしさ」に反するから受け入れにくい。私の反応は、この刷り込みによって変わったのです。

人間関係でも同じことが起こります。「世の中には自分とは違う人がいる」という当たり前の事実を受け入れているはずなのに、気づけば私たちは「自分らしさ」や「相手らしさ」にこだわり、それを型にはめ、比べようとしてしまうのです。しかし、「らしさ」とは本当に固定されたものなのでしょうか?

人格とはなかなか難しい議論で定説はないのかもしれませんが、宮城音弥(1960)によると、性格は同心円の層構造になっているとされています。ピスタチオを輪切りにしたイメージです。これは、人の気質(生まれ持ったコアな部分)を中心に、その周りを囲むように環境から形成されていく行動様式があるという考えです。あくまで参考ですが、「『らしさ』の核となる大事な部分は保ち続けることができ、変わる部分もある」と捉えると、少し自由な気がしませんか?

他人から見た「あなたらしさ」は、すでに袋詰めされ、商品として出荷されているかもしれません。でも、あなたの内側では、今もダークチョコレートが重ねられ、「らしさ」が形成され続けているのです。だからこそ、「自分らしさ」もまた、探し続けるものではなく、変わり続けるものなのかもしれません。

ないものはない(はさみは今、手元にない)。大事なものはすべてここにあって、ないものはどこを探してもない。だた、もしかすると「いま、ない」だけかもしれないのです。
世の中には、たくさんの性格診断やタイプ別診断がありますが、捉え方を間違えると、自ら鎧をまとい、ガチガチに動けなくなってしまいます。人は、平均点で測れるものではなく、そのゆらぎの中に個性があり、可能性がある。そう思うと、「自分らしさ」って、本当はもっと曖昧で余白をもたせてもいいのかもしれませんね。
あなたはどう思いますか?

参考文献:宮城音弥  1960 , 性格 ,岩波書店

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