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言語的な疑似体験からの再出発
まだ知らない失語症/もっと知りたい失語症
1章 「してやったり」感 (4)言語的な疑似体験からの再出発
ここに書いている文章の題名は、「まだ知らない失語症/もっと知りたい失語症」です。
私はことばのリハビリに携わって約20年経ちます。月並みですが、失語症(者)についてまだ知らないことが多いと感じています。
自分が失語症(者)のことが世に知られていないという課題を見出してから、失語症(者)について「まだ知らない」ということが以前よりもはっきりしてきました。「手ごたえを得た」という方が近い感じがします。
以前は、「まだ知らない」というのは、失語症の症状やリハビリの方法について勉強が足りないことの言い訳に使っていたように思います。
失語症者のことが世に知られていない。このことを振り返ってみます。
ことばのリハビリを担う自分は、職場のスタッフや失語症者さんのご家族に対してあまりに教科書的な説明をしてきたのではなかったかと思います。
教科書的であったと思う理由は、説明してきた内容が、上に書いたように失語症の症状やリハビリの方法であったり、意思疎通の方法など、既に文字化されている事柄を引っぱってきていたためです。
文字化されている情報を引用することは、ごく一般的に用いられている方法だと思います。(この文章でも、引用・参考文献を用いています)
文字化された情報に基づいて伝える利点は再現性があることです。
例えば、ことばのリハビリ担当の経験がまだ浅いとき。それでも、ことばのリハビリ担当は職場に自分一人しかいないので、周りのスタッフやご家族に自分が伝えなければならない。 このような事態では、例え経験が浅くても、知識が不十分であっても、文字での情報があれば、頼りになります。
そうなのですが、失語症(者)のことを知ってもらう方法として、「別の手掛かりがあるのかもしれない」と思い立ちました。
私が約20年前に研究していたテーマは、「失語症理解のための疑似体験の考案」でした。当時、高齢者疑似体験は福祉系のイベント等で行われていましたが、失語症理解のための疑似体験に関する先行研究はほとんど見当たりませんでした。
自分としては新しいテーマを開拓したように思っていました。
しかし、この疑似体験の導入で、目的は「失語症者の不便さをイメージすること」と説明していました。さらに体験後のアンケートで「失語症の症状や患者のストレスをイメージできたか」、「失語症のために言いたいことが十分に言えないことがイメージできたか」、「失語症のために相手が話していることが十分に理解できないことがイメージできたか」を尋ねていました。導入部とアンケートによって、参加者に感じ取ってほしいことを伝えたことになるわけです。しかし、その一方で疑似体験の参加者を、ことばによって誘導してしまったとも考えられました。
参加者一人一人の「体験」であるはずなのに、予定通りの枠に収めてしまったようです。
この失語症疑似体験を含めて、これまで活用されてきた疑似体験は「言語的」といえるのではないでしょうか。
言語的であることで、誤解なく、脱線なく、目的を果たすことはできるかもしれません。しかし、疑似体験の目指すところはパターン化された体験なのでしょうか。
伊藤亜紗先生の著作「見えないスポーツ図鑑」に
もしかしたら、ものを使いながら、振動やリズムでスポーツを伝えられることができるのかもしれない。言葉にこだわるのをやめたほうがいいのかもしれない
とありました。 ”ことばにこだわらない“ このことによって、パターン化となりがち、パターン化を求めがちな疑似体験から再出発できるのかもしれないと思いました。
前項の「口は動いて手は動かない」に、
失語症者との「伝える」あるいは「伝わる」においては、動きや行動を活用するの有効性を期待できます。
と述べました。
失語症(者)のことを伝えるのに、教科書的であったり、疑似体験であったり、さまざまなアプローチがあると思います。
自分が手にした関心と疑問を基に、感覚・体感を手立てとする疑似体験について、少しずつではありながらも検討していこうと思いました。
引用・参考文献:
伊藤亜紗、渡邊淳司、林阿希子「見えないスポーツ図鑑」晶文社 2020