経験者が考える場面緘黙症アレコレ④よく聞くお悩み「作文が書けない」「自分のことが分からない」&SNSの利用について
場面緘黙症経験者で、ASD・ADHD傾向ありの自分、アラフォーという年齢ながら、SNSが使える時代に辛うじて生きていられて本当良かったし、ギリギリセーフだったなと思う。
自己実現と言う視点だと、セーフでなく後の祭り感もあるが、その分気楽さもある。
SNSどころか、ネットのない時代は悩みを出す場がほぼ皆無だった。今思うとゾッとする。
受動型だと、自分の悩みを外に出したくない、出し方が分からない。そもそも言語化出来ていないというパターンは多いかと思う。
他者にあれこれ言われて混乱することを恐れ、一人胸の内に溜めてしまったり。
うまく行っているフリをし、他者を誤魔化すうちに自分を見失う。中身が空っぽの経験ばかり積み、見かけだけ大人になる。
SNSで悩みを吐き出すこと。それが他人の目に触れるということ、そしてそれを自分自身が知覚すること。
これはもう、経験不足ASDに取っては、コミュニケーション体験とも言えるものだなと。
もちろん、リアル世界の肌身で感じるコミュニケーションとは程遠くとも、
他者に自分の意見を見られた、という強い体験に、段階を追って身体を馴染ませる効果があるのでは?と感じる。
視線恐怖、他人(特に同年代)が怖い…の自分は、自分自身を表にだすこと、表現することに非常に抵抗があり、幼少期に場面緘黙症を経験している。
(ほとんど話せないという「認識されやすい緘黙」を克服後も、話せるものの違和感があったり、限られた人しか話せないという「認識されにくい緘黙」期間が長かった)
他人に自分の意見を言わない、作文などでも本心を書けない。
自分の気持ちや楽しかった体験などを言語化するのが苦手。
「感情は無いわけではない」し、(自分の場合は)心の中では楽しいとも辛いともしっかり感じていたが、「他人に伝えたい」という意思が無かったように思う。
SNSを始めた頃は、何かを一つ書くにしても緊張して何度も書き直したりしていたが、
しばらく経つと、ありがたいことに反応してくれる方が出て来る。
メッセージのやり取りになると、今でも緊張するチキンだが、
出しっぱなし状態で、自分に共感してくれるどなたかが見ていてくれるということ、そのことは孤独感を和らげてくれた。
(かつては、悩みは一人で抱えていたいと思っていたが、思い切って出してみると、共感してくれる人の存在というものは想像を遥かに超えてありがたいものだった)
かつて、精神科医やカウンセリングなどにかかっても解決出来ない(どころか、無理解に苦しみ更に自分を傷つける)悩みや苦しみは、共感してくれる人の存在と、自分にヒントを与えてくれる、膨大なオンライン上の人々の発信により救われたと感じている。
「自分の胸の内を他者に見られている」ことに免疫が出来るどころか、楽しいと感じられること、
まだまだリアルのコミュニケーションではきょどることが多い自分でも、多様な人々のそれぞれの価値観に触れ、アラフォーにして他人を尊敬出来るようになったことをありがたいことだと思う。
※自分のことが分からない、行きたい高校が分からないという、場面緘黙&ASDのお子さんの話を聞いた後に書いた文章です。
共感する人が周りにいない状態では、自分のことを理解するのが難しい。
そんな子供たちが、貴重な時間を無駄にしないためにも、自分を認めてくれる人に出会えることを望んでいます。