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努力は嫌いだけど、好きなことを仕事にしたいと思い続けて実現させた話

タイトルの通りだ。私はとにかく努力が嫌いだ。苦手だ。
興味があるものしか続けられない。
中学の頃にはすでにそうい性質だったと思う。

私は、小さい頃から「ゲームを作る仕事をしたい」とぼんやり夢見ていた。
今、私はその夢を叶えているのだ。小さい頃の私が、
今の私を見たらどう思うだろうか。喜ぶだろうか?それはわからない。

好きなことだけしてきた私がどうやって「やりたい仕事」にたどり着いたか。
自分の職歴をざっと振り返っていこうと思う。

◆闇の大学時代

…その前に、まずは大学時代から振り返ってみよう。
美大に入った私。
美大には変人だらけ、自分には理解の及ばない才能を持つ人たちが
たくさんいた(ように思えた。今思えば、実際どうだったのかはわからない)。
そんな人達に囲まれたことで私の自信は一気に崩れ落ちる。
意識高く毎日のように展覧会へ行っては、翌日感想や解釈を語り合う同級生達の会話を聞いていると心臓がぎゅっとなった。堅苦しい。意識高すぎて無理。
ここで私は、大学から逃げ出す。アルバイトしていたメイド喫茶の同僚に影響されズブズブとオタクとなり秋葉原界隈の住人となる。
コスプレにのめりこんだのもこの時期だ。
当然大学には行かず、コスプレとモンハンし続けて1年留年。
復帰した年も周囲へのコンプレックスと気まずさで結局休学。
やめるか、ふんばるかいよいよ決断しないといけないとなった時に、私はふんばる道を選んだ。
教授から「まわりで意識高く活動してる学生たちだって、たいしたことない。好きなことやって好きなことを表現していいんだよ」と言われて心が軽くなりふんばることを決意したのだ。
本当なら4年間で余裕をもってとる量の単位を2年でとり、なんとか卒業が決まる。(思えば、この2年が一番努力していた時期かもしれない)
だが、当時は就職氷河期ということもあり、2年も多く大学へいっている学生を雇ってくれるようなところはどこもなかった。
当時から私は「好きなことを仕事にしたい」という思いからゲーム会社、
オタク系エンタメ制作会社などを志望していた。
あれこれ受けた結果、アルバイトとして1社拾ってくれた会社があった。
それが1社目の「A社」だ

◆コンテンツへの深い愛情を学んだA社時代

A社はオタク系のエンタメコンテンツを諸々制作している会社だ。
そこのWeb担当として日々サイトの更新や一部デザインなどを任されていた。
本当はゲームを作りたかったが、「似た業界にいればいずれ何かの縁があるかもしれないし、なにかしらのスキルは身につけられるはず」と思い、修行の気持ちで入社した。
一応新卒ということもあり、技術がなくても上司が丁寧に仕事について教えてくれた。ありがたい。

この会社のとある部門にいたコンテンツプロデューサーはとにかく気の強い女性だった。
自分を責める相手がいれば、関係のある役員をつかって社員を飛ばすようなこともしていた、とにかく成功のために手段は選ばないような人だった。
人間的にはまったく尊敬できなかったが、
自分の手掛けたコンテンツへの愛は猛烈に強かった。
コンテンツがイメージと違う使われた方をすれば激怒したし、
いつも自分の担当コンテンツのことがどれだけ好きかを話し、
コンテンツを「我が子」のように愛していた。
この時私ははじめて「コンテンツ制作側」も強い愛情をもってものづくりをしている人がいるということを知る。当たり前のことかもしれないが、なんだか衝撃的だった。
こういうものってもっと、淡々と仕事の1つとして作られていくものだと思っていたからだ。

A社で2年働いた後、「やはりゲームづくりがしたい」と思い転職先を探す。
コスプレで知り合った友人が勤めていた会社が新事業でゲーム事業を起こすということで紹介してもらい、B社へ入社した。ここが本当の地獄だった。

◆やりたい仕事はできていたが地獄だったB社

B社もA社同様、オタク系のエンタメコンテンツ制作会社だった。
規模はA社よりやや大きめ。
とにかく古臭い体質で入社初日からまったく肌にあわない会社だなと感じていた。(早く次の転職先を見つけたかったこと、やりたい仕事がやれるという喜びで何も考えずに転職してしまった)
ここでは女性向けゲームの企画制作を行っていた。
世界観の構築からシナリオ監修を担当していた。コスプレ友達だった相方と二人きりのプロジェクトだった。
友人とはとにかく仕事の相性は最悪だったし、会社の体質もあわないしで
開発〜発売まで本当につらいことの連続だった。
入社初日から「この会社に長くいても意味なさそう」と直感で思った私だったが、絶対にこのプロジェクトはやりとげて「実績」を作ったうえでやめようと決めていた。そうすれば、「ゲーム制作会社」に転職できるかもしれないと。小さい頃から見ていたその夢だけは忘れずにいた。
しんどいことの連続だったが、
ここで世界観構築やキャラクターづくり、シナリオライティングの楽しさを知る。
作品やキャラクターへの愛情は誰よりも持っていたはずだ。
「ゲームづくりがしたい」という曖昧だった夢は
「ゲームのシナリオを書きたい」と、明確な形になっていったのはこの時だ。

プロジェクトを無事やり終えてから約1年後、
この会社で培ったものを武器に、新たな転職先を探す。
今度は慎重に、絶対に妥協せずに会社を決めようと思いながら・・

余談だがB社は経費削減(?)のために
社内でゴミが捨てられなかった。
生ゴミは持ち帰って駅で捨てろというお達しがあった。(民度…)
ペットボトルも捨てられなかった。そのため、処分がめんどくさくなった
ペットボトルを机したに隠す人が続出。地獄だった。
他にも社内の空気が淀んでいて健康に害が出そうという意見が出た際には
植木をいくつか置いただけで「環境改善した」と満足げに話す社員がいたりした。
あの会社がまだ続いているのが不思議だ。

◆C社(今の会社)

ゲーム制作会社に直接所属するシナリオライターというのはあまりいない。
ゲームのシナリオは、内製ではなくシナリオ制作会社に外注されていたり、「プランナー」というもう少し大きなくくりの中でシナリオをやっているかが多かったりする。
だが、私は「絶対に自分が好きで、やりたいことしかやりたくない」という思いで根気よく会社を探した。
プランナーではなくライターとして入社したかったのだ。
ほぼ未経験のくせに本当にわがままだ。
B社ではゲーム開発にあたりやりたくない仕事も多く経験した。
B社の方針は「なんでもできる人になれ」というものだった。
私は「特定分野のエキスパートになりたい」という思いがあったので
そうなれるような会社を探した。

…そうして見つけたのが今の会社だ。
新規ゲーム開発にあたりちょうどシナリオライターを探していた。
ほぼ未経験だったが、私がA社時代からずっと抱えていた、
作品やキャラクターへの強い愛情が評価され採用されたようだ。

こうして私は小さいころから夢見ていた「ゲームづくりがしたい」という夢を叶えることができた。正直運がよかったのもあると思う。
夢を叶えるために何か努力したか?と聞かれても1つも答えられないくらい、何もしてこなかった。
だが、「いつかゲームづくりにつながるだろう」と信じて
ここまで歩いてこれたのは我ながら偉いなあ・・と思ったりする。
興味のある分野がとにかく狭く、「これしかやりたくない」というタイプだからこそ今までブレずにこれたのだが、
「ブレずに夢を持ち続ける」ことって案外大変だし、
だからこそ大切なのかもしれないなあと、自分を振り返りながら思うのだった。


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