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どうすればよかったか?

まず、観終わって真っ先に思ったことは、
異常と正常の差なんて至極曖昧なものである、ということだ。

私は姉で、3歳下の弟がいる。
家庭環境が同じであるため、必然的にわたしの心はお姉さんに寄り添っていた。
本作は、統合失調症の理由を探るためのものではない。
(映画鑑賞前に注意事項として出される)
だが、やはり否応なく、両親の望み通りに生きようとした姉の姿が浮かび、心が揺さぶられた。

つい先日、私もうまくいっていなかった母と久しぶりに2人きりで食事をした。
『親子ゆえに』大事なことから目を逸らせ続けてきた。
母は私の生きる上での苦しみや、悲しみを直視することを避け続けてきたように思えた。
私は、今の状況について『誰が悪いわけではない』と繰り返し言ったが、
母はそれでも自分を責めているように見えた。
そして、それを認めたくないようにも見えた。
ぽつりぽつりと話す母が、とても小さく見えた。

母と話して、そしてこの映画を拝見して私が思ったこと。
それは、子育てなんて自己満足の延長であるということだ。
親が『こどものため』と発言する時、一体どのくらいの割合で本当に子供のためと思っているのか。
無意識下であろうものの、その少なくない割合が『自分のため』であろう。
自分への評価や、世間体、自分の理想の子どもにするため。

一方、子どもが言う『親のため』とは自分のためではない。
ここに、悲劇が生まれる。
自分を殺して親の希望通りに生きること。
それが、子が言う『親のため』なのだ。
親に褒められたい、認められたいという子が持つ根源的な欲求を満たすためという観点から考えれば、
これもまた自分のためになるのかもしれないが。

お姉さんの状態を見ても、玄関の南京錠を見ても、ドアの内側での咆哮を聞いても
不思議とそこまでの『異常性』は私には感じられなかった。
なぜなら私も母を異常と思えるほどに罵ったり、モノに当たったりしていたから。
そういうことになる人もいるだろう、と思った。
それほど、家族というのは閉鎖的であり、また家族自体が異様な空間でもあるのだ。

ご家族は、特にご両親は、必死に何かを守っているように見えた。
姉の状態を普通とすることで。
行事を行事然とすることで。
父と母を『演じる』ことで。
そこにこそ一種の『異常性』を感じざるを得なかった。
あくまで『普通の家庭』に執着する姿。
姉が暴れるシーンよりも、家族が一見和やかに食事をするシーンの方が、何倍も恐ろしかった。
息苦しかった。
自分自身がその場に着席し、自分の思い通りには決して話せないような窮屈さを感じた。
そしてそれは、我が家でも少なからず感じる息苦しさでもあった。

20年以上病気で苦しんできた姉が、たった3ヶ月の入院で
まるで人が変わったように穏やかな表情になって戻ってきた時には思わず涙が溢れた。
ただただ、『なぜ』と思った。
あまりにも辛かった。

そこから何かを取り戻すかのように色んなところへ出向き、
色んなことを体験し、自分の意思で日々を楽しんでいるお姉さんを見て涙が止まらなかった。
かわいそう、とも、よかったね、とも違う。
ずっと『なぜ』が私の中に溢れていた。

親は子どもに呪いをかける。
良い子の呪いを。
その呪いは、一生とけることはない。
親が死んでも、きっと残り続ける。
その呪いを一生背負いながらも、私達は必死にもがきながら生きるしかない。

どうすればよかったか?

この問いに答えはない。
考え続けながら、生きる。

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