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焦燥感に駆られ、海を見に行った

最近は、どうしようもなく焦燥感に駆られてばかりいる。

なにかをしなきゃならない、もっと言えば、なにかを作らないといけない気がするんだけどなあ——最近はそんなことばかりが頭を占めている。

しかし、具体的になにかができているわけではないから、より焦る。


端的に言うと、暇なのだと思う。

休職して約半年。なかなかの期間である。

暇だから、なにかをしないといけない、と思ってしまうのだと思う。

つまり、「暇」という状況を、そのまま享受できていない。

そこにやましさのようなものを感じてしまっている。

これを休職状態にあった精神状態の回復の一つの証と見ることは容易だが、この焦燥感は、決して気持ちの良いものではない。


なにかを作らないと——そういうアウトプットへの焦りが主であるため、映画を観るとか、本を読むとかのインプットが滞りがちになる。

正確には、そちらへの食指があまり動かない。

それでも最近、とある本を読み進めている。


その本では、「相互評価のゲーム」の〈外部〉を目指すことが語られる。

情報環境において、時流を読んでバズることを目標に発信し、より根源的な問いに回帰することをよしとしないゲーム。

そして本の中で、〈外部〉の象徴として、『アラビアのロレンス』においてロレンスが走ったアラブの砂漠が登場する。


この本を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのは、浅田彰による『逃走論』であった。

『逃走論』においては、マザー・コンピュータが管理する世界=リゾーム的なものに満ち〈領土化〉された世界が描かれ、それはママ=Motherと同じように「男の子」たちの自由を阻害する。

だからそこから逃れ、スキゾ・キッズの遊び場である、〈脱領土化〉された世界である〈砂漠〉に行くのだ。

——本の要旨は、たしかそんな感じじゃなかったかと思う。

ニュー・アカデミズムの時代に流行った、一つのアジテーション本だ。


私は、上記の通り、今読んでいる本から、この『逃走論』を思い出した。

とはいえ、上述の要旨が示すように浅田の本はドュルーズ・ガタリから大きな影響を受けており、彼ら亡き今、そんなピュアに彼らの思想を参照することは叶わない。

私が今読んでいる本でも、〈砂漠〉は、かつて目指された外部として、すなわち今では「ゲーム」に取り込まれた場所として登場する。

かつてロレンスが落したアカバは、中東のリゾート都市となり、「#Aqaba」で検索すると、インスタ映えする場所となっている。

コロナ禍にそのアカバを訪れた著者らは、そんなプライベートビーチから外れた場所にある砂浜に座って海を眺め、外国人向けのレストランでレモネードを頼む(のちにこの描写は嘘であると明かされるのだが)。


この本を読んで、私は不意に、砂浜に行きたくなった。

そんな、「手付かず」の砂浜などあるはずがない。

それでも、砂浜から、海を眺めたくなった。

なぜだかは分からない。

ただ、先述の焦燥感が示すように、私はなにか行き詰まりを感じていたのかもしれない。

あるいは「相互評価のゲーム」の主な場であるインターネットが、ここ数日、特に荒れているのを見て疲れたのかもしれない。

とにかく私は、ただぼーっと、海を眺めていたくなった。


先日、そんなわけで私は江ノ島に行ってきた。

島の方は、いかにも観光地という感じだったし、砂浜についても、季節が季節だから人が少ないだけで、これもまた観光地なのだろうと思った。

それでも、海から離れて、整備された段差に腰掛けて眺める海や寄せて返す波は、夕方の低くなった太陽と相まって、綺麗だった。

それを見ながら、サニーデイ・サービスの「風船讃歌」やくるりの「Everybody feels the same」を聴いていると、とても感傷的な気持ちになり、なんだか泣きそうになってしまった。


なにも生み出せたわけではない。

海から戻ってみると、また同じような焦燥感は蘇ってきた。

でも、このインスタントな感傷が救いになりうると知ったことは、少しだけ自分を楽にしてくれたような気がする。


江ノ島に行った翌日、私は夕方までひたすらに寝た。

体力は、確実に落ちているみたいだ。



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