夏とチキン
毎年、夏が来ると抱く夢がある。
・川で遊ぶ
・海に行く
・BBQをする
・夏祭りに行く
・花火大会に行く
夏になれば多くの人が通るであろう、ありきたりな夏の過ごし方だ。
そんなありきたりな夏すら味わってこなかったから未だに夢のままなんだけど、正直これが夢だなんて恥ずかしくて誰にも言えない。かといって現実で誰かを誘う勇気を持ち合わせていないチキンの僕は、毎年密かに憧れを抱きながら結局1人で変わり映えのしない夏を送っている。
むしろ普通に友達や恋人と夏を謳歌している人たちの方がどうかしているとまで思う。1度でいいからそちら側の世界を味わってみたいものだ。
ここで大事なのは夏が来るたびに抱く夢を叶えるためには友達か恋人じゃないといけないってこと。これは絶対に譲れない条件である。
家族でBBQをしたり、花火大会に行くことはこれまでに何度もあった。でもそれはあくまで家族っていう枠の中の息子あるいは弟という立場でしかない。それにこんなことを言ったら失礼なのかもしれないけど、家族とのお出かけにはあまり楽しい思い出が無い。
母親はこちらの気持ちなどお構いなしにずかずかと物事を決めてしまうし、父親とは特に話すことが無いし、2人の姉は2歳差で年が近い分共通の話題が多いからかずっと喋ってる。
そうなってくると僕は結局1人で家族からはぐれないように必死で付いて回るだけの者でしかない。
よくある3人いたら1人だけポツンとなってしまう状況を思い浮かべて欲しい。それの家族バージョンを夏が来るたびに味わっている。夏だけに限らず基本そうだったけど。
かといってその状況を脱却できるような力が無ければ友達もほとんどいない僕は、結局親(あるいは家族)としか夏のイベントを味わえなかったわけである。
その結果出来上がったのは、こうして夏に対して異常なまでの憧れを抱きつつも結局夢が叶うことなく夏が過ぎ、挙句の果てにはどうしようもないその夢を叶えられる季節が今年も既に到来しているというのにこうやってnoteを書くことしかできないチキン野郎だ。
「花火見に行こう!」「BBQしよう!」
こんな一言を送ることが出来たらきっとこの記事を書いていることはない。だからこそ僕はチキン野郎だ。
それにきっとお察しのことだと思うが、そんな一言を気軽に送れるような人がいない。それを象徴する記事を3か月も前に書いた。「独りに慣れている」なんてどう見ても友達がいないやつの言うことだ。
独りに慣れっこマンは友達を上手く作ることが出来ず、気軽に夏のお誘いを送れるような知り合いはおらず、しかもそこにチキン要素まで加わっている。
これはもう味の濃い唐揚げだ。
濃ゆい醤油ベースのタレに付け込まれて揉み込まれたチキンのように、夏に抱く夢を叶えるにはあまりにも不利すぎる要素たちが体の中に染み込んでいる。
しかも一旦染み込んでしまった癖を取り除くことはできない。
一から新しい素材を用意して、一からタレを作り込んで、それらを合わせて初めてちゃんと美味しいものになる。既に出来上がった唐揚げをチキン南蛮に使ったとしても、出来上がるのはべちょべちょになった唐揚げだ。チキン南蛮はチキン南蛮の工程をクリアして初めてチキン南蛮になるのだから。
とはいうものの食用のチキンなら替えが効くけれど、チキンの人間はそう簡単には替えられない。唐揚げとチキン南蛮理論で言ったら癖の染み込んだ塊である人間は望む癖を求めて輪廻転生しないといけなくなる。
もちろんそんなことは不可能なわけで。
だからこそ毎年同じ季節に同じ夢を抱いてくすぶり続けている次第である。
今年もきっとこの夢が叶うことは無いだろう。
チキンはチキンらしく濃い味付けのまま焼き上がってしまおうか。
読んでくれてありがとうございます。