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私が言語聴覚士を目指し、そして辞めた今。(9)

 お母様が他界しご実家へ戻られた上司は、年号が[平成]から[令和]へ変わるために設けられた5月の10連休とも重なり、約2週間程度会社を休んでいた。この間私は、ある想いが沸々と湧いて来ていた。

 上司のお母様のリハビリと向き合った際に、リハビリに対するスタンスや患者や家族との関わり方などの過去に抱いていた[自問自答]は消え、心の中に静けさと情熱のようなモノがバランスよく存在していると実感していたはずだった。しかし、「本当にあの方法で良かったんだろうか」「もっとできることはあったんじゃないんだろうか」という想いが強くなっていた。

 上司が遠く離れた場所で入院していた母親の元へ通いっていた頃、見舞いに行ってはリハビリの様子を動画に撮って来てくれ、参考になればと私に見せてくれていた。あの時のリハビリスッタフの様子に私は「なぜ?」と疑問を抱き、「諦めてる」ことに怒りさえ覚えていた。しかし、「私がお母さんに対して過剰に評価し、私が期待していただけで、すでに[食べる]ことは難しいと誰が見ても分かる状態だったのかもしれない。あの時のスタッフの行動や判断が正しかったのかも知れない」などと思えて来た。

 何よりも、お母様を生まれ育った地から離れた場所へ移動させること、延命治療の1つとしてある[胃瘻増設]は行わないこと、点滴を止めることへの承諾、全ての瞬間どれもこれも大きな決断を行なった上司の、今の想いが知りたかった。

 私の父は、私が16歳の時に癌で他界した。癌が見つかった時は、もう手の施しようがなく母は、痛みを和らげる薬をお願いし、癌であることは最後まで告知しないと決めて最期を迎えた。数年後、母はこの時のことを「もっとやれることはあったんじゃないか。救える方法があったんじゃないかってずっと思っていた。」と後悔の様子で話してくれた。この時、家族の決断の重さやその後、ついてくるそれぞれの想いがあるのだと知った。

 私は家族の立場である上司と、私の母親の立場を重ねていた。

 そして、久しぶりに出勤した上司へ私はどうしても聞きたく、2人っきりの時に勇気を出して聞いた。


(10)へと続く…