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透き通った花束を
朝、久々に轢かれた猫の死体を見た。
手を合わせたものの、大きい幹線道路だったうえに、仕事に急いでいた為そのままにしてしまった。
駐車場に停めてある車のドアを閉めた途端、いたたまれない気持ちに襲われ顔がゆがむ。
何の冗談かと思うかもしれないが、今日は仕事の関係で屠畜場に向かう事になっていた。
そこに訪れるのは今回が二回目で、以前行った時に、初めて生きている状態から加工され肉になる牛を見た。
これはなるほど、どうやって肉が我々の口元に届いているのかを目の当たりにすると、ベジタリアンやヴィーガンになってしまうのも頷けるほど衝撃的な光景であった。
車を走らせながら、先ほど見た猫と、逆さ吊りになり解体されていく牛を思い出す。
肉は食べるという理由があるから、猫は可愛くて情が移るから...
けれど、どう考えても死は死である。
当人たちにとってもそれ以上ではないはずである。
我々は死に理由(ストーリー)をつけたがる。
それは弔いとして、というよりは遺された者の為であるような気がする。
無駄な死とは何だろう。讃えられる死とは何だろう。
死は状態であり、その個体の最終座標である。
それ以上も以下も無い。
生とは時として不平等の連続だが、死はこの世にあって唯一の平等である。
皆、分け隔てなく尊ばれるべきであるし、自然であるべきだと思っている。
遺された者の悲しさや寂しさを癒す為、前に進む為にそういった理由が必要になるのも勿論分かるし、それは当事者の自由であるとも思う。
しかし、それは時として生きている理由を求められるという事象も引き起こす。
死と同様、生きる事にも本当は意味などないと思っている。
それは同時に、何を生きている理由にしても良いという事だとも。
何のために生きているのかを、死ぬまでに探すのが生であるともいえる。
死を慎重に扱うのと同じぐらい、それぞれの生も不可侵であるはずである。
食べられる為に生まれてきたのでは無い、車に轢かれる為に生まれてきたのでは無い。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
それは誰にも分からない。
ただそこに死という事実が横たわっているだけだ。
生まれたからには何かを成さなくてはいけない、誰かの役に立ったり、愛されなければならない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
少なくともそれは自分以外の誰かが測り、決める事ではない。
答えなどは到底分からないし、死んでも分からないのかも。
それでも考えてしまう。
そんな自分もやっぱり何か理由を探しているのだろうか。
そんな事を思いながら、きっとこれからも死に胸を痛めながら、肉を食べて酒を飲む。
自己矛盾は人間の標準装備だ。
葛藤は続く。
けれど、やはりこの世は生きている者の為にある世界だと思いたい。
そして、不条理や、狂気や混沌で溢れていても、少しでも優しくあれる可能性を信じていたい。
楽しいと、愛しいと思えた瞬間を生に変換して、何度も素晴らしい景色がみれたならと。
あの世へ行って違うかった時はまた報告させてもらいます。