「えくぼは恋の落とし穴、恋愛感情の核」説

 痩せるために頭を使いたいので、最近疑問に思ったことを書こうと思う。

 痘痕も靨ということわざがある。あばたもえくぼ、と読む。

あばたもえくぼは、相手を好きになった人の目には、天然痘が治癒した後にも顔面に残る発疹の跡である「あばた」でも、相手の顔にあれば笑うと頬にできる窪みである「えくぼ」のように見えるということから、相手に惚れていると相手の欠点すらも長所に見えるということを指すことわざである。

Wikipediaより

欠点も長所に見えるという意味の言葉はたくさんある。そういう意味の慣用句やら類語やら、そういう言葉が多く存在するのは、好きという感情を持ち続けた人類の宿命だろうと思う。

 経験談だが、相手の欠点すら長所に見えることは無に等しい。惚れているが故、欠点に気付くことすら出来ないからである。
 恋愛感情を持った相手だけでなく、友人や家族にも同じことが言える。第三者から見たら欠点だろうことも、当事者から見れば、それも相手を構成する一部であり、大切な要素のうちの一つである。当事者である私の完全なる贔屓目だ。

 ここまで考えた上で浮かぶのが、前述した「最近疑問に思ったこと」である。

Wikipediaでは「相手に惚れていると」と説明されていた。
 "現在進行形で好き"な相手にしか、"痘痕も靨"は通用しないのだろうか?

 尚、惚れていると好きは同義とする。

 大好きだった元彼氏は、明日や来週のような近い未来はもちろん、半年後や一年後の遠い未来にも私が相手の人生に関わっている前提での発言が多い人だった。
 連絡は寄越さないし、予定を立てるのも突然だったけど、一緒にいるときの言葉で安心できるから好きだった。
 実家が太い人だったので大金を使っても人生どうにかなると思ってるであろう社会を舐めた目が、性格が、好きだった。

 周りから散々止められた恋だった。恋は盲目だとも言われた。そういう相手だった。痘痕だらけな人だった。顔面ボコボコ。私には靨に見えていた。それはそれで不気味だが。

 別れてから二年が経つ。今は好きな人がいるし、その人にはもう未練なんてない。

 しかし、数年が経った今でもその人のどこが好きだったかを聞かれても、当時と変わらない。
「"痘痕も靨"が、現在進行形で好きな相手にしか通用しないわけではない」どころか、恋は盲目も通用していないではないか。盲目でもなんでもない。冷静な目で相手をきちんと見て判断していた。一度でも「好き」の感情を持った相手には、今その感情が全くない状態でも"痘痕も靨"が通用する。

 アイドル界の天下に君臨するももクロ・百田夏菜子は「えくぼは恋の落とし穴」と唱える。持論、これは偽で、正すならば「えくぼは人生の落とし穴」だと思います。知らんけど。落とし穴にハマったときにはもうすでに遅い。えくぼに落ちたなら、恋が終わったときにも抜け出せることのない、底なし沼である。




 ここからは先は余談。ない方が綺麗にまとまったと思うけど、書きたいので書く。

 かの有名なきのこ帝国は、疾走で「季節が3つ過ぎただけ」と歌った。

 季節が3つ過ぎただけ。24時間を7回、それをまた4回、それをまた12回繰り返せば自然と季節は3つ過ぎる。
 しかし、好きな人がいた3つの季節を、過ぎた"だけ"とは言い表せない。色んな感情や出来事、大それた言い方をするならば人生を共有するのに、"だけ"と言う人は少ないだろう。

 恋愛に結びつけることができる美しい日本語はまず疑う。美しいの定義は、ぱっと見でも字面でも語感の良さでもなんでもいい。言葉は疑うことで深みが出るのだと思う。

 ただし、好きな人は根拠もなしに疑わないこと。素直であればあるほど関係性に深みが増す。

 恋愛って難しいね。

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