無間地獄 巨大な脳みその脱皮
亮が黒い炭酸の海の中に落ちた瞬間、亮に胸が戻ってきた。その瞬間から亮の胸にビジョンが下り、そして目ではその巨大な脳みその脱皮が映し出された。心には平和が、そして目には脱皮のグロテスクさが。着々と脳みそは脱皮していく。
はじめに目から一番遠い部分の薄皮がはがれ始めた。生々しい血が流れだし、痛みは見るだけで想像できた胸に映し出されるビジョンでは、亮が処刑台へと行進していく。目に映る脱皮の姿は、血を垂れながしながら、そのあとに海を出していった。皮がはがれて、血が流れて、黄緑色の膿が出る。胸のビジョンは磔刑台へと歩を進めていく。群衆は取り囲み、自分を笑った。攻撃するものはいない。ひとりもいない。ただただ、遠巻きに自分を見つめていた。そう、ただただ遠まきに笑っていた。その中にはかつての自分もいた。亮がいた。亮は自分に笑われていた。しかし、その亮を磔刑台に向かう亮が一瞥して嘲笑を向けると、群衆の中の亮が恐れをなしてひるんだ。それを磔刑台に向かう亮は見逃さなかった。
目には巨大な脳みその脱皮が進む。もはや血と膿がまじりあって、汚い汁がだらだらとたれている。ここは黒い炭酸の海だ。真っ黒で気泡がたちこめているはずなのに、二酸化炭素に満ち溢れているはずなのに、なぜか赤が鮮明でなぜか海がより色濃く、そしてそのふたつが混ざり合うとより、そこだけが縁どられるように見えている。
ーーー俺は、呼吸をしていない?ここは二酸化炭素によって…
そこまで考えて亮は気づいた。
ーーーそもそも俺には体はなかったはずだ。なぜ、そんな思考になるのか?これは誰が考えているのか?俺は胸にはビジョンしかなく、目は巨大な脳みその脱皮しか映すことができないというのに。この思考はどこから来るのか?
磔刑台に向かう亮が胸の中で凛としていた。打ちひしがれる姿はなく。胸を張って雄々しく、まるで凱旋するかのような足取りで磔刑台に向かっている。巨大な脳みそは脱皮をすすめる。
亮の思考が言う。
ーーー俺はどこにいるんだ?俺は誰なんだ?俺の所在がわからない。。。
あざ笑っていた、群衆の中の亮がまとわりついている。それもひとりやふたりじゃない。小さい亮が分散して蠅のようにうるさく飛び回っている。
胸に見える磔刑台に進む亮と、蠅のように分散している亮。どれも客観的に見える。亮はもう一度自分に聞く
ーーー俺はどこにいる?
脱皮は進み、いよいよ目の周りまで来ていた。亮は無間地獄にいるはすだった。自分の体はないはずなのに黒い炭酸の海の中でも呼吸を気にしていたし、胸は磔刑台に進んでいる。
亮は混乱することなくすべてを受け入れた。気にすることはないと誰かが言った。巨大な脳みそが言った。
いよいよ目の周りの脱皮がはじまった。亮は目をそらすこともなくなった。もはやその脱皮の光景は100年以上の時をかけて行われていたかのようだった。無間地獄に落ち行くその間に、時間の感覚はなくなっていたのか、それとも、本当に100年以上の時をかけて脱皮が行われていたのか、それさえも不確かだった。
亮の胸は亮がいよいよ磔刑に処されるところだった。亮は幾千、幾万もの日々を思い出した。懐かしいとは思わなかった。詫びたいとは思った、感謝したいとは思った、許せないとは思った、怒りが湧き出た、復讐してやろうと思った、泣きたいと思った、許してほしいと思った、殺してやりたいと思った、悲しいと思った、うれしいと思った、わくわくした、楽しかった、幸せだった、自分の可能性を感じた、自分の夢を見た、自分の才能の限界に気づいた、自分が、自分が、自分が、
ーーーーーしかし誰かのせいだとは思わなかった。
磔刑になったあと、自分が死んだら、そう亮は思わなかった。俺が死んでも俺が終わるだけであろう。そう感じた。脳みその脱皮は最終局面を迎えていた。痛そうな匂いがした。腐乱臭だった、肉が焼ける臭いだった、ドブの臭いだった、残飯の臭いだった。
交じり合った悪臭の最後にあの目が亮をとらえた。目は何も言わなかったが、亮は目に言った。
「俺の正義が正しかったんだな。思い出したよ」
あの巨大な脳みその正体、それは亮の子供時代の思考だった。珍しい大きなオニヤンマをみつけた、夏の夕暮れ。それを捕まえたら、俺は昆虫博士になれるだろう。そう思って夢中で追いかけた。気づけば日が暮れて、親が探しに来てくれていた。怒られた。それでも幸せだった。俺の夢が近づいたから。怒られたけれど、それは俺が悪かったからいいんだ。俺の夢が近づいた。それだけでいいんだ。
ーーーあの総大将が泣いていた。仮面のはがれたあの弱弱しい女がいた。そして総大将は亮にこう言った。
「つらい思いをさせてごめんね、頑張ってくれてありがとう」
亮の無間地獄は終わった。
<<to be continued/....>>
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