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沖縄のノコギリヤマ

 いつか沖縄を旅したら、是非行ってみたいと思ってきたところが
あります。
浦添市の前田高地、第二次世界大戦、沖縄戦の激戦地の一つです。
随分前のことですが、たまたまテレビで「ハクソーリッジ」という
アメリカ映画を観て、感動もし、色々と考えさせられたものでした。
 
 この程、沖縄旅行が実現して、この地を訪れることができました。
90メートルもの断崖絶壁で、アメリカ兵はハクソーリッジ
「のこぎりの刃ような崖」と呼びました。
 
 現在は、浦添城跡の史跡として整備され、丘陵の眺めのいい
公園になっています。
海や家々を見下ろす光景は、横浜の港が見える丘公園を思わせました。
78年前に繰り広げられた凄惨な攻防戦があったとは思えない静かな
佇まいでした。
高齢のアメリカ人らしき夫婦がそぞろ歩いていて、すれ違いざまにこちらに会釈されて、心持ち申し訳ない気持ちがあったように感じました。
 
 この映画の主人公・デズモンドは、バージニア州の田舎育ちの青年で、
敬虔なキリスト教徒であったことから「汝、殺すなかれ」の教えには
忠実でした。
  当時の青年達は、日本の真珠湾攻撃に義憤を感じ、志願兵として戦場に
行くことが当たり前でした。デズモンドも志願し、武器で戦う代わりに
野戦病院で傷病兵を看護することで国に奉仕するつもりでした。
ところが、思いは叶わず、通常部隊に配属されてしまいました。
軍事訓練を受けますが、武器には一切手を触れず、人を殺す一切の訓練を
拒否しました。
戦わない兵士など受け入れられるべくもなく、問題は大きくなり、
軍法会議裁判を受けるまでになりました。
結局、デズモンドの願いは受け入れられ、衛生兵として1945年沖縄攻略戦に従軍しました。
 
 アメリカ兵はこの崖を登り、崖の上で待ち構える日本兵と戦いました。
戦艦からの鉄の暴風と呼ばれた激しい砲撃をした後、壮絶な白兵戦と
なりました。
アメリカ軍は苦しい戦闘の末、崖を降りて撤退しますが、デズモンドは
一人崖の上に残り、命が残っている兵隊を探して走り回り、
ロープを使って崖から一人づつ吊り下げ救出してゆきました。
銃撃されても、ただ逃げ回り、死体の下に隠れながら、なんと75人もの
負傷者を助けました。その中には、日本兵も二人いて、もうデズモンドに
とっては敵味方はなく、傷ついた人間への一途な思いだけだったのです。
 
 劇中、デズモンドは「信念を曲げたら生きて行けない」と語るシーンが
ありました。
信念の強さに感動を覚え、更に驚いたのはエンドロールで、これは架空の
物語ではなく、真実だったと示されたことでした。
その後、デズモンドは帰還して、トルーマン大統領から名誉勲章が授与されました。
 
 戦わないことを決意して軍に貢献することも勲章に値するという事実が
あった事を知りました。
 
 この事実は日本の平和憲法の下で戦闘ではない救援活動をする自衛隊に
対しても、日本国の戦わないという信念に対しても、敬意は示されない
でしょうか。
 
 1990年8月にイラクのサダム・フセイン大統領は、クエートに侵攻しました。大統領の言い分は、「うちの店先で大安売りなんかするもんだから、うちの物が全然売れなくなった、だからやったんだ」でした。
大安売りしていたのは、もちろん石油で、イラクの生命線でした。
国連は直ちにイラクに撤退勧告を行い、経済的な制裁に踏み切りました。
イラクの頑なな対応に、ついにアメリカ・ブッシュ大統領は多国籍軍を
編成して1991年1月に攻撃を始めます。 これは湾岸戦争と呼ばれました。
 
 当時、海部首相は多国籍軍への自衛隊派遣が、海外での武力行使を禁じる
憲法にそぐわないのではないかと悩みました。
精々、青年海外協力隊でも派遣するのがいいのではないかと思い
至りました。当時、自民党幹事長の小沢一郎は多国籍軍に参加しても、
戦うのではなく、野戦病院での医療活動くらいはできるのではないかと
持論を語りました。
 結局、人的支援ではなく、お金で解決する形になりました。
その時、提供した資金は1兆1100億円で、国民一人当たりの負担1万円という大盤振る舞いでした。

 命の次に大事なお金を出して感謝されると思いきや、助けて貰った
クエートは、多国籍軍に参加した国々に向けて感謝の広告を
ワシントンポスト紙に掲載しましたが、そこには日本への感謝は
表わされませんでした。
ブーツ・オン・ザ・グラウンド・地上に軍靴で立てと、生身の人間が
助けてくれることに価値があるとされたのでした。

 これには政府も相当にショックだったようで、1992年には法解釈を
やりくりして、国連平和維持活動法(PKO法)を成立させて、
ペルシャ湾では海上自衛隊を派遣して、掃海艇で機雷除去などの
後方活動に参加しました。
その後もイラクに続いて、カンボジア内戦、アフガニスタン攻撃など
自衛隊派遣が続きました。
 
 日本政府も日本人も、国際社会の一員として、無法者が暴れ出した時、
みんなで取り押さえる事の重要性や責任は判っています。
しかし戦後、平和憲法を守って、自衛隊が誰一人外国人に攻撃したことがないという事実は誇るべき事と思いつつも、今後本当にこのまま続けてゆけるのだろうか、国際的に、またアメリカに対して、正当性を主張出来るだろうかという不安は常に付きまといます。
 
 そして2001年9月11日、ブッシュ大統領、今度は息子の時代に、
あのニューヨーク・ツインタワーをはじめとするアメリカの中枢を
民間航空機で破壊するという前代未聞のテロ事件が起きました。
もうこうなると、理由はなんでも構わなくなり、大量破壊兵器を
保有している狂犬として有志連合と呼ばれた多国籍軍は、
イラク、サダム・フセイン政権の壊滅を目的としたイラク戦争を
始めました。
この時も、ショウ・ザ・フラッグ(仲間であることを旗で示せ)と
ブーツ・オン・ザ・グラウンドという言葉は頻繁に使われ、
日本は同盟国に遅れをとってはならないという
焦りの空気に包まれたのです。
この時は、小泉政権で2004年に非戦闘地域に限り自衛隊を派遣するとした「イラク特別措置法」を成立させて人道支援の為にイラクに派兵しました。
 
 Show the flag 旗を掲げろ Boots on the ground 戦地に共に立て、
などと煽られると、日本の男子も胸の中にモヤモヤ感が湧いたものでした。
戦後一貫して平和憲法の下、平和教育されてきて、他国と戦わないことを
美徳と思うように躾けられてきて、その上で自衛隊という機能はしっかりと
整備して、防衛の為だけに使うものだという認識を取りあえず受け入れて
きました。
取りあえずと書いたのは、男子と生まれたからには、いざとなったら
命を賭しても戦うという古来から刻み込まれた何かとの折り合いが
付かないからです。
 
 「ハクソーリッジ」の映画の主人公デズモンドは、敵と戦わない
異形の兵士として軽蔑され、リンチを受けましたが、
戦場で仲間を助けたという偉業は称えられ、デズモンドなしでは
あの壁を登りたくないと兵士たちが思うようになりました。

 日本の自衛隊の貢献の仕方もこうあったらどうでしょうか。
医療設備が整ったいくつもの艦船を戦闘の後方に送り、
傷ついた兵士たちの治療に徹するのです。
やがて、同盟国から日本が後方に居てくれないと、
戦闘を始められないと言われるまでの高いレベルの救援力をもつのです。
これは戦争だけでなく、世界中で起きる災害にも率先躬行してゆけば、
絶大な国際的な信用を得られることになるでしょう。
 
 平和不戦の憲法を持った日本の行く末は、デズモンド兵士の活躍を教訓とできるのではないでしょうか。
 

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