物と心と形の不思議
家内と食器売り場にいて、茶碗を選んでいる。
あれだこれだと考えるのに飽きてきて
「そもそも形って何だろうね」とつぶやくと、
家内はまた始まったという顔を向けただけで応えず、
棚の食器の選定に余念がない。
「形」という字を分解してみると鋳型と輝きになる。
土の鋳型に流し込んだ金属が冷えて取り出すと
キラッと輝く剣になったという感じだろうか。
人は思う以上に形にとらわれるもので、
形のある物には何かが宿るような
特別な観念が湧き上がるクセがある。
信濃なる千曲の川の細石も君踏めば玉と拾わん
というなんともいじらしい一句が万葉集にある。
愛しい人に係わる物は何でも輝く特別な物になる。
そう考えて見渡してみると、あるわあるわ、
子供たちが着ていた産着や玩具、
亡父の万年筆、野球のサインボールや
作家物の花卉など思い出の品々。
偉人の記念館となると丸ごと特別な観念の物の宝庫である。
懐かしい形見だけではない、
呪いのわら人形となると穏やかではない。
遊園地の帰りに子供にせがまれてつい買ってしまった
巨大なクマのぬいぐるみ。
巣立った子供たちはみんな知らんぷり、処分に困った。
子供達が散々愛情を注いだだけに何かを感じる。
粗大ゴミに出すわけにもゆかず、
人形供養のお寺に持ってゆくかとも考えたが、
意外な高コストに怯む。
ついに思い付いたのは、「形」をなくすことだった。
ぬいぐるみの縫い目を解いて中の詰め物を出してみると
ただの大きな袋生地と大量のポリエステル綿で、
思い入れもすっかり解けた。
これなら心置きなく、ゴミに出せる。
はて、改めて物の形とそれを感じる心の不思議は依然解けないままだ。