「亡くなりました」
こんな怖い字面は人生で初めて見たかもしれない。母から送られてきたラインは音も温度もなかった。
父方の祖母が死んだ。生前4年間ほど一緒に住んだことがある。だけど思い出はさほどない。母はこの祖母に嫌がらせを受けていた。今思うと、嫁いびりとは少し違うようだ。
祖母はデリカシーがなかった。相手を思いやる心も人より少し鈍くて、思ったことをそのまま言うのだ。悪気がない分、傷つき損なのだが、人間分かっていても傷つくものだろう。
「かなり具合悪いらしい」そう母からいきなり連絡があったのは、まだ春先だった。「お見舞いは?」と聞いても母は素っ気なく、コロナを言い訳にしていた。あまり孫をかわいがるタイプでもなかったので、年齢もあり、私もさほどショックを受けなかったと正直に話そう。
しかしながら、私はふと考える。今にも死にそうになっているとき、孫の私が来ないことを寂しいと感じているだろうか?と。もし感じていても話せないのなら、私はなんて酷いことをしているのだろうと。
それでも母の反対を押しのけて見舞いに行くほどの決断は出来ず、悶々と日々を過ごしていた。
可哀想なんて気持ちで見舞いに行くのは同情ですか?
ほどなくして亡くなったと連絡があった。私はその時、喪服を試着していた。死を待つ時間とは、なんて仄暗く陰鬱な深さなのだろうか。行く当てもなく落ちていく気持ちや、けじめのつけようがない現実。
私は父が泣いている姿をほとんど見たことがない。祖父が亡くなった時も、祖母を気遣い喪主として凛としていた姿があった。二人目の、最後の親を見送る気持ちはどんなものなのだろうか。計り知れないし、推し量りたくもない。
父は最後のお別れの時「ここまで育ててくれてありがとう」と泣いた。母は「お母さん」と言って泣いていた。私より倍以上一緒に過ごした記憶がそうさせてしまうんだろうと、頭の片隅で考える。
愛されなかったとは思わない。嫌われてたとも、傷つけられたとも。
だけどもっと、なにかもっと、違った形で関われたら。最後のこの、後味の悪いさよならは、なかったかもしれない。
「さよなら」