見出し画像

MBAを持つ母が語る子育て ー女にはキャリアを貫くために闘わなければならないときがある(前編)

※本記事は、宣伝会議 第43期 編集・ライター養成講座の卒業制作として作成しています

 筆者は出産で出版社を退職後、働きたいと思いパートや派遣をしながらチャンスを伺っていたものの、仕事については挫折続きだった。今、娘二人を育てる母親として、女性が結婚して子供を産んでもキャリアに影響なく、また子供や自身に負担なく働き続けるためにどうすればよいのか?MBAという難関資格を取り、自身のキャリアを諦めることなく、結婚も子育ても貪欲に貫いてきた女性に話を聞いた。

新幹線通勤で息子二人をワンオペ育児

佐々村美子さん(仮名・公認会計士 外資系金融機関管理職)
2018年MBA取得

 駅の雑踏から少し離れた渋谷のカフェで、仕事終わりの小柄な女性と待ち合わせした。公認会計士の佐々村美子さんだ。
 佐々村さんのキャリアは大学4年の時、公認会計士試験合格から始まった。合格と同時に大手監査法人に就職。間もなく大学時代の先輩と結婚する。翌年には長男を出産。監査法人には1000人の社員のうち女性100人、子供がいる先輩女性は一人しかいなかった。
 入社2年目で出産、職場復帰した女性は異例で、立場は崖っぷちだったが、家ではさらに追い込まれた状況だった。当時、住んでいたのは小田原近郊の大井松田。佐々村さんはなんとローカル線で大井松田から小田原に出て、新幹線で丸の内まで通っていたのだ。なぜ大井松田に住むことになったのか?保険会社に勤める夫の職場と社宅があったからだ。夫の会社では若手社員は家族で社宅に住むのが基本。妻が公認会計士でも社宅に住むことは当然とされた。

Qちゃん親子

長男4歳、次男2歳のとき子連れでイギリスへ短期留学。現地のナーサリーに預け、講座に通った。

 佐々村さんが結婚した1997年は、結婚して仕事を辞める女性がまだ多かった。転勤の多い夫の会社では、子供が小さい頃は家族帯同で社宅に住むのが常識だった。佐々村さんも自分が働いているせいで夫が会社で居心地の悪い思いをするのが嫌だった。
 朝起きて子供を保育園へ連れて行き新幹線に乗り、6時まで働く。
「退社5分前に上司に呼び止められ、定時を超えると新幹線に乗り遅れ、本数が少ないので30分ロスしてしまう。子供の迎えやご飯、お風呂とやることが山ほどあるのにこの30分は痛い。でも、たとえ新幹線に乗り遅れても、きちんと対応するようにしていました。ここで話を遮ってしまったら、もっと居づらくなると思ったから」
 監査法人は取引先で仕事をしなければならず、夕方資料をもらってからがスタート。自分以外の同僚たちは近くのホテルや、時には会議室に寝泊まりするのが普通だったというから、定時に帰るのがいかにハードルが高かったかわかるだろう。若手会計士は徹夜で作業することも多く、そそくさと帰るとき同僚たちの視線が辛かった。家に仕事を持ち帰るため大量の資料を抱えて「本当にすみません」と言いながら帰った。その頃はいつも謝っていたと振り返る。
「『私帰ります』とスタスタ帰られたら、私もムッとします。でも申し訳ないと言いながら、山ほど資料を持ち帰って責任を持ってやっていたら、きっと応援したくなる。そういう人間になろうと思いました」
次第に周囲から『頑張ってるね』と応援されるようになっていったという。

男性60時間以上割合

男性の年齢別週60時間以上就業する割合 
30~40代の子育て世代の労働時間が圧倒的に多く、そのしわ寄せが女性の非正規雇用につながっている。

 2年後、次男が生まれる。育児の負担はさらに重くなったが、大井松田には頼めるシッターも家政婦もいない。佐々村さんは、介護職の老人に頼んで、週2、3日手伝いに来てもらった。そして子供達が寝た後、毎晩1~2時まで仕事をした。夫は子供が寝た後に帰宅、完全にワンオペ育児だった。
「母も公務員でずっと働いていたので、自分も絶対できると思っていた。父が亭主関白で、父の言動を母が我慢する姿を見ていたのも影響しているかもしれません」
 今なら、エリート妻に育児を丸投げ、職場から遠い社宅に住むなんてと、世のワ―ママから袋叩きにあいそうだが、佐々村さんは夫に対してまったく恨みがない。
「常に一歩引くようにしていました。だからけんかしたことが一度もない。やっぱり夫のことが好きだったんでしょうね」

20~50代の就業形態

女性は20代では正社員が多いのに、30、40代と非正社員が多くなる。多くの女性が第一子出産後、非正規になるが、その後戻るのは極めて難しい。

 この時期一番辛かったのは、子供が順番にインフルエンザにかかり、自分も体調を崩し、40℃の熱のなか仕事をしたこと。子供のために休んでも、自分の病気のためには休めなかった。なぜそんなに頑張れたのか?
「公認会計士を受験するとき、9ヵ月間全てを犠牲にして無になって勉強して合格した。それを無駄にしたくなかった。職業人生として責任を全うしたい気持ちと、いい母親でいたいという思いのせめぎあいだった
 その後、千葉転勤を経てまた大井松田に戻った。1年が過ぎ、佐々村さんはさすがに通勤に耐えきれず、ようやく夫に引越したい気持ちを告げた。
「夫が『お前のところまだ奥さん働いてるの?』と周りから言われていたようで、私のせいで肩身の狭い思いをさせたくなくて、なかなか言いだせなかった。自然のある大井松田を気に入っていると思っていた夫は寝耳に水という感じで、最初は引越にも反対でした。でも奥さんの働いている先輩から『何やってんだ、子供がいるなら奥さんが働きやすい所に住んでお前が通うんだ』と諭され、ようやく私が大変だったことに気付いてくれたんです」
足掛け8年、佐々村さんはようやく自身が通勤しやすい地に引越できた。
 その頃、佐々村さんは外資系証券会社に転職する。監査法人は夜型に対し、外資証券は朝早く行って仕事ができたからだ。そこでも子供のいる女性社員はおらず、子育てしているのは自分一人だった。通常は6時の定時に上がれたが、忙しい月初めは10時まで働いた。子育てサポートゼロの大井松田から都内に引越した佐々村さんは、自分の母や夫、シッターを頼みサポートを受けた。しかし周囲には専業主婦の家庭が多かった。

弟くん

鮎をつかみ取りする次男(4歳頃)。夏休みはアウトドア派で家族で海か川へ行き魚釣りや虫取り、サッカーを楽しんだ。

「私が働いてることをネガティブでなく、『お母さん、働いてるんだぜ』とポジティブに捉えてほしかった」
 低学年の頃は、お母さんがいないのにこんなに出来てすごいねとよく褒め、高学年になると「お母さん、仕事が楽しい」と伝えた。読んだ育児本に、ハンカチは一カ所つまめば持ち上がるように、全部やらせるのではなく、漢字でも計算でも運動でも何か一つ得意なことを伸ばせばいいと書いてあった。子供にとってのメリット、それは私が働いていること。なぜ金利があがったのか、円高の影響は?会計士として働いているからこそ教えらえることを子供にわかる言葉で話した。

(後編へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?