「お笑い」という不条理に対する返note
古典の授業は大嫌いだった。先生が嫌いだった。日本語なのに読めないから嫌いだった。女々しい短歌ばかり歌うから嫌いだった。
だがそんな授業の中から学んだ数少ないことの一つに、「返歌」というものがある。
ある一つの歌に対して、手紙で返事を書くかのように歌い返すあれである。
時には恋情に答え、時には皮肉に答え、そして時には世界に答える。
この記事は我が人生初の試みとなる、noteに対する「返note」である。
今までの独白と違い、僕にはこの文章を確かに読んでほしい人がいる。
だからこそ私は慎重になりながら言葉を一つ一つ選ぶだろう。それが自分の世界の一部である「お笑い」関連ならば尚のことである。
では、早速書かせていただこう。
0.プロローグ
某氏のnoteではコントへの愛が溢れていた。
その情熱を僕が語るのは酷く烏滸がましいので、ぜひ読者諸君にはしたのnoteを読んで欲しい。
かつてこんなにもコント愛に溢れる人間に出会ったことがあっただろうか。私の人生は確かにお笑いとともに歩まれてきた。そして某合宿に行って気づいたことの一つでもあった。
僕はお笑いなら誰にも負けないくらい好きである、と。
といいつつ僕は劇場に足を運んだことなんぞないし、生で見た笑いなどせいぜい落語程度ある。
だが、だからと言って私のお笑いへの愛が消えるとは思っていない。甲本ヒロトのロックンロールに対する態度のように、僕は例えジャンルが分からずとも、お笑いの専門用語が分からずとも、その人の心が「お笑い」を愛していればそれでいいと思うのだ。
そんな私のお笑いに対する愛をしかし、人前で披露したことはさほどなかった。もちろんお笑い好きを自称する人間には今まで何度も会ってきた。しかし、私が「大川興業」のコントについて語っても「知らない」という人間ばかりであった。江頭2:50は今でこそバラエティのゲテモノ枠だが、その昔は劇場で汗水垂らして役に打ち込んでいたことを、どれだけの人間が知っているのだろう。(本当はここにそのコントをのっけたいのだが、いかんせんどこにもないので、気になる方は外山恒一という活動家の家を訪ねてみるといい。彼なら忘却の彼方に置き去りにされてきた数々の貴重なVHSを持っているはずだ)
だからこのnoteは衝撃的であった。紹介されているコンビやトリオに対する熱はもちろん、お笑いそれ自体に対する深い洞察に脱帽せざる負えなかったのだ。その熱を受け取り、僕の中で静かに揺らいでいたお笑い魂の炎は最高潮を迎えた。
書かなければ、書くしかないのだ。
あの時のnoteを書いていたように、私は再び「書く」という行為へ誘われる。どうしようもない、誰かに伝えたいこの思いを。
だからこそここに記すのだ、私のお笑いを、私の魂を。
コントについて語りたい気持ちはある。だがあのnoteが私の大半の意見を代弁してくれた。だから今回の「返note」は、「漫才」の方にフォーカスしてみたいと思う。
定義は至極簡単である。「マイク以外の道具のない」状態でどれだけを人を笑わせられるか、である。
では早速みてみよう。
1.オズワルド
オドぜひで誕生した「裏路地芸人」という名称が似合いそうな方々から行くと知識をひけらかしたいだけのオタクだと思われそうなので、まずは有名どころからみていく。
2021年M1決勝進出組であり、決勝三年連続出場の記録を持つオズワルドの漫才はとにかく見るものをその独特な世界へと引き込む。
彼らの面白い漫才はごまんとあるが、この漫才はその中でもオズワルドの面白さの「本質」が最もよく現れていると思う。
この二人の漫才、まず大前提として「ツッコミ」という名の暴力が伴わない。
オードリーやカミナリのように「ツッコミ」という身体的接触が笑いを増幅させるコンビももちろんいるしそれはそれで面白いのだが、この二人は圧倒的に相手を叩くということをしないのである。
だが遡ってみても、博多華丸・大吉や南海キャンディーズのように、相手をたたかずただ「嗜める」漫才も昔から存在してきた。
ではそんな古参コンビたちとオズワルドは何が違うのか。
それは圧倒的にツッコミ役、伊藤氏のヒートアップぶりである。
ツッコミとは本来お客さんや世間の常識に合わせてボケを「訂正する」のが役割だと聞いたことがある。
だがオズワルドの漫才はそもそも常識が通じない。
「車」と「車えび」を同一視して漫才をひたすら進めるなど、常軌を逸しているとしか思えないのだ。
トムブラウンの場合はその「無秩序」にツッコミ役である布川氏が共感し、ただひたすらに混沌へと我々を誘う。
だが伊藤氏の場合は、畠中氏の「カオス」に対して冷静に対処をする。言葉で正し、相手の思想に疑問を投げかけ、場合によって一旦それを受け入れた上でその構造にツッコミを入れる。
そしてその先にあるのは、伊藤氏の「暴走」である。だがそれは案外「普通」のことなのかもしれない。ずっと訳のわからないことを聞かされていれば、人間誰でも思考が混乱して爆発するものだ。そうして「常識」を持っていた人間が「混沌」によって触発され、突っ込んで訂正することで理性的思考回路を保つことを放棄した瞬間、伊藤氏は「暴走」を始める。相手のペースに乗せられ、相手よりも狂気的な発言を始める。
それが見ていて爽快なのだ。始まりのおっとりとしたやりとり、狂気を正気だと思っているボケに振り回され、最後には常識をかなぐり捨て「狂気」との接触に成功する高度な漫才は、M1決勝戦3年連続出場の経歴に恥じない。今年の活躍もひどく楽しみである。
2.千鳥
テレビをつければ大体のバラエティには出ているし、「いろはに千鳥」や「テレビ千鳥」は大人気番組である。そんな「千鳥」の漫才は、実は他の漫才と少し違っていたりする。
※残念ながら千鳥は公式youtubeがないので「チャンスの時間」の公式abema動画を載っけておく。このバラエティも面白い
では何が違うのか、それは圧倒的な「仲の良さ」である。アメトーークの「相方のツッコミ最高芸人」での大悟氏の反応を見れば一目瞭然であるが、他の組に比べて相方への「尊敬」が少ない。例えば東京03の角田氏は飯塚氏のあの迫力あるツッコミに対して「尊敬」の念を抱いているように見えるし、事実何かの番組で確かな賞賛を送っていた。しかし大悟氏にはその心がない。ノブ氏のツッコミに「尊敬」など抱いていない。なぜならただただ「楽しんでいる」だけだからである。
スピッツのロビンソンの歌詞ではないが、「誰もさわれない 二人だけの国」という形容が一番似合うのではないか。大悟氏が必死に笑いを届けようとしているのは、どう見ても観客ではない。過去のM1を見てみればそれが審査員ですらないのがわかる。たった一人、たった一人に向けた笑い。そしてその一人に向けられた笑いに対する「ツッコミ」を、大悟氏は心から楽しみにしているのだ。
だから生放送時の千鳥はすごい。ノブ氏のツッコミに平気で大悟氏が笑うのだ。自分たちの漫才が面白くて笑ってしまうと、客の反応が白けてしまうというのは漫才界の常識だと聞く。だが千鳥はそれすらも笑いにかえる。なぜなら見ている人間がよくわかっているからだ、心より漫才を彼らが楽しんでいることを。
いや、彼らのは漫才ではない、公の場で見せるただの「いちゃつき」である。
そしてそのいちゃつきが見る人を巻き込んで爆笑の渦へと誘う。何度同じネタを繰り返しても笑いを堪えきれない大悟氏と常に大悟氏にとって100点のツッコミを繰り出すノブ氏の「いちゃつき」を、これからもずっと見て見たいものである。それが漫才であろうと、バラエティであろうと。
3.三拍子
NHKの「爆笑オンエアバトル」を観ていた読者諸君なら覚えているはずだ、饒舌な「ノッポ」とパワフルな「デブ」を。常々思うのだが、M1のトロフィーは三拍子をモデルにしているのではないだろうか、と。彼らのシルエットだけでなく、ネタやツッコミまでもが「ザ・漫才」という形がするのだから。
さてそんな「これぞ漫才師」の中で特に注目すべきがこのネタである。オンバトの決勝戦でも披露されたこのネタは、一見型破りなように見えて、漫才の「全て」を詰め込んでいる。
漫才の序盤から観客の前でネタ合わせをし、そこで決まったネタを披露する。それは圧倒的にリアルなフィクションであり、エッシャーの騙し絵「滝」のような不条理を含んでいる。
トリビアの泉で一番面白くないギャグを考案する回があったが、そこで笑いを研究する学者の一人が「客の予想を裏切ることによって笑いを生み出す」テクニックを紹介していた。客の前でネタ合わせをするなんていうのはその真逆である。相手に手の内を全て明かし、次に何が来るかを明らかにしているのだから。
それなのに、である。ネタ合わせをした後のネタ披露で、見事に客のハートをつかんでしまうのだ。客が感じるのは「なんだこの裏切りは」という笑いではない。「そりゃあそうだろう」という笑いである。漫才の中で漫才をするという、「メタ漫才」といってもいいだろう。「裏切り」という漫才の鉄板を「裏切る」ことによって笑いを生み出しているのだから。
そしてここに漫才の全てが詰まっているのだ。なぜなら漫才とは本来「不条理」なものなのだから。「当たり前」に笑いはない。非常識や裏切り、突拍子もないシューレアリズムが「笑い」へと人々を誘う。そうした「不条理」を裏切ると、それは一周回って元に戻る、と思われるだろう。だが「不条理」が裏切られると、それは「正気」を保った「狂気」へと変貌する。漫才の中で「漫才」をするこのネタは、三拍子がたどり着いた一つの「答え」なのかもしれない。
4.単純な個人的おすすめ5選
さて、もう4000文字近く書いているので、そろそろ読者諸君も飽きた頃だろう。だからここからは理論や理由を省き、ただひたすら私の好きな漫才師たちを数組列挙していく。
①金属バット:言わずとしれたアングラコンビ。肩の力を抜いたゴリゴリの大阪弁漫才はとにかく「パンク」と形容せざるおえない
②コマンダンテ:淡々と進む漫才は、知らず知らずのうちに狂気を帯びて、気づけばボケとツッコミが逆転している。恐ろしやコマンダンテ。
③怪奇!YesどんぐりRPG:元々僕はサツマカワRPGのファンなのだが、この三人が繰り出すネタはなんと形容すればいいのだろうか。混沌の中に型を形成し、それぞれピン芸人としての個性とグループとしての秩序を見事に両立させている。
④大自然:声がいい、麒麟の川島氏と引けを取らない声の良さ。そしてこの風貌で漫才のツッコミやネタが優しい。そのギャップに心を奪われる
⑤ダイヤモンド:ツッコミとボケの概念が狂っている、もちろん褒め言葉である。ボケがツッコミの良さを引き出す漫才も珍しいが、何よりもこれは「ツッコミ」それ自体で笑いを取っている。ぜひ見て欲しい
5.終わりに
語りたい、まだまだ語りたい。
おぎやはぎやバカリズム、トムブラウンやトンツカタンなど、語れるものはいと多し。
しかし4500文字は長すぎるので、そろそろここで締めたいと思う。
では最後に閉会の挨拶を。
お笑いとは、不条理を上に成り立つ。それは誰もが納得するところだろう。日常それ自体を笑う人はいないし、常識に囚われている人が常識を笑うことはない。
だが、そんな日常に潜む「狂気」を拾い上げ、常識に疑問を呈し、世界の不条理を「笑い」に変えてしまう、それが「お笑い」の真髄ではないのだろうか。
最後に僕の大好きな歌の一節で、この文を結末へと誘いたいと思う。
たとえば世界中が どしゃ降りの雨だろうと
ゲラゲラ笑える 日曜日よりの使者 -日曜日よりの使者(甲本ヒロト)
そうだ、世界は不条理なのだ。理不尽なことが襲いかかり、予測もできない災難に見舞われ、そうして人はその「見えない力」によってもたらされた出来事を不幸だと思い嘆く。
だが、もしかしたら、世界が不条理なのは、それを「笑い飛ばす」ためにあるのではないだろうか。どんな予測不可能なことに見舞われても、どんな自然発生した不幸に遭遇しても、それをゲラゲラ笑ってしまう。
「お笑い」とは、そんな不条理な世界で生きる僕らに、この世界の面白さを教えてくれる、そんな不思議な「使者」たちのことを言うのかもしれない。
全ての「お笑い」芸人たちに、多いなる幸と勇気あらんことを。
ー佐々木
タイトル画像:「攻殻機動隊Stand Alone Complex 」より「笑い男」 © 2011 士郎正宗・Production I.G