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ゲーム性とは何か?-定義に惑わされるゲーマーたち-

新作のゲームが発表された時や発売された時。
またはレビューサイトやランキングサイトでゲームを探している時。
一度は見たことがあるだろう「ゲーム性」という言葉。
他人にゲームを勧めるときにも使った事があるだろうし、聞いたこともあるだろう。
それと同時に、一定数のゲーマーが考えてしまうことがある。

「ゲーム性」とは何か?

私もそんな一人であったし、自分の中で「ゲーム性」と定義していたものもあった。
しかし、改めて俯瞰的な視点からこの「ゲーム性」という言葉を考えた時に
「果たして定義できるものなのか」という疑問に行き当たった。

ゲーム性を定義しようとする働きは活発で、独自の解釈を述べたり、論文を書いている学生までもいる。
しかし、彼らは同じ言葉の真理を追究しながら、別々の結論に行きついている。
様々な文献を見た上で、「ゲーム性」という言葉に対して考察者や読者に共通認識としてあったものが
①「グラフィック」「音楽」等の視覚的、感覚的な特殊効果は「ゲーム性」に含まない
②ゲームコンテンツに対して感じる「ゲーム感」の度合を示す言葉である
③奥の深いゲームは「ゲーム性が高い」とされやすい
という前提をもったものが多い。

特にこれらは前提として語られる事も多く、この定義をもって「ゲーム性」の解釈を行おうとしている。
「この前提がそもそも間違っている」としたら果たしてどうだろうか。

どのような場面で「ゲーム性」は生まれるか

「ゲーム性」は「後天的な要素」である。決してゲームが作られるときに生じるものだけではない。
「潜在的なゲーム性に気づく」というと聞こえはいいが、結局は「ユーザー体験によって初めて生じるもの」という定義のほうがより正しいと思われる。
ゲーム性が生じる瞬間を大きく二つに分けるとするならば
・ゲーム進行上で「思いもよらぬ展開」により「劇的な状況変化」が起こった場合
・ゲーム開始時から積み上げてきたものがある一定の成果として実を結んだ瞬間
「偶発的なポジティブな出来事」と「ゲームにより達成感を得た時」の2パターンだ。
これらが発生したとき、ユーザーは初めて「ゲーム性」を語ることになる。
ユーザーにより認識されることによってはじめて「これはゲーム性の高いコンテンツだ」と言われるようになる。

これは決してシステムに限った話ではない。
ストーリーの展開や美麗な演出へ発展するといったものであっても、それが「スコアによる条件分岐」に紐づいている場合には「よりゲーム性を感じやすい」と言える。
今までの「ゲーム性理論」では「ゲーム性とはあくまでシステムのみによって語られる」とされていたが、そもそも「ゲーム性」は「ユーザー体験によって生じる感覚的な物」だとすれば、「特殊効果におけるユーザーへの感覚的な体験の提供」を「ゲーム性」から排除するのは現実的ではないと思われる。
これをもって前提①の反証としたい。

ゲーム性は平等に提供されない

前項でゲーム性とは「システム構築の妙」ではなく「ユーザー体験から生ずる直感的なもの」であるとした。
であるならば、ユーザー個々人によって「ゲーム性」の有無は変るのではないか。というのは最もな話である。
いままでの「ゲーム性理論」でもこの部分で引っかかってしまい、無理矢理に定義に押し込もうとしている文献が多々あった。
ここで解釈が進展しないのは、いつまでも「ゲーム性」は「コンテンツが持つ数値」で表せると妄信しているからに他ならない。
「ユーザー体験がもたらす感覚」をゲーム性と定義すれば「ゲーム性は個々人によって変わる」なんて当たり前の話である。

二人用の対戦型のカードゲームを例に出す。
二人零和有限確定完全情報ゲームであってはならないことは留意して頂きたい。

プレイヤーAはゲーム開始から少しずつ有利を積み重ね、間もなくプレイヤーBを追い詰めることができそうだ。
一方のプレイヤーBはプレイヤーAの猛攻を耐えながら、逆転の一手を密かに組み立てている。

ここでプレイヤーBの手に逆転に必要なピースが揃う。
Bはその一枚の効力を存分に使い、Aの有利を覆し、逆転勝利をすることができた。

では彼らの感じる「ゲーム性」はどうだったか。
秘策が功を奏し、不利な状況を一変させたBは間違いなく「ゲーム性が高い」と感じただろう。
一方のAは、「積み上げていた有利をたった一枚でなかったことにされた」
「その一枚があれば状況問わず誰でも勝てる」「運ゲー」
と感じ「ゲームとして成り立っていない」と感じるかもしれない。

同じゲームの同じ状況にあっても、二人の感じる印象は真逆であり、それは「ゲーム性」の評価にも如実に影響する。

以上より、一つのゲーム(コンテンツ)を普遍的な数値「ゲーム性」で表すことの難しさが分かっただろうと思う。
さらに重ねれば「ゲーム性」という概念により「ゲームそのものの完成度」を評価しようということ自体がナンセンスである。

前提②では「ゲーム性」という概念によって「ゲーム」を評価しようとしているが、
評価者の立場や場面により左右される「ゲーム性」を評価材料として使用することが間違っている。

「ゲーム性」の正体とは


ここまでで、既存の共通認識であったはずの「ゲーム性」という物を否定してきた。
では「ゲーム性」とは何なのか。という最後の結論へと向かいたい。

「ゲーム性」とは感覚的なものであり、それをプレイヤーが実感した時に初めて生まれる概念、達成感であり、ゲームコンテンツ固有のパラメータとして使用すること自体がナンセンスである。という話を今までしてきた。

では「ゲーム性」と言われているものの正体は何なのか。
これが生じる場面を思い出して欲しい。
ゲーム性はそれを体験したユーザーがいて初めて生じる概念である。
つまり、所謂「ゲーム性が高い」とされるには、
「楽しい」「良く出来ている」と認識できるユーザーへ「届く」能力こそがその正体である。

それは「間口の広さ」や「完成度」はもちろん、下手をすれば「広告」も含まれてくる。
そういったあらゆる手段を用いて、「ゲーム性が高い」と「感じるユーザー」に「届く」ことで、コンテンツは初めて「ゲーム性」を獲得することができる。

前提③である「奥の深いゲーム」は様々な遊び方や方針を提供している為、あらゆるユーザーに「届きやすい」構造をしている。

作りが地味でも良くない。ゲームそのものが認知されなくてはいけない。
「ゲーム性」とは「楽しいと感じて貰える能力」の言い換えでしかない。

「ゲーム性」という普遍的な「性能」という言葉を本来使うべきではない。
それは自身が勝手に生み出した。もしくは好みに合致した結果の「好意的な感想」なのだ。

「ゲーム性」の有無でゲームの質を図ることをやめよう。
それはあくまで、レビューした受け手が感じただけにすぎない。

面白い物、自分に合ったものを探しているならゲーム性という概念を参考にせず
そして、他人に勧めるときもゲーム性という「言い換え」を行うべきではない。

定義する必要もない。それは個人の感想が着飾っただけの表現であり、ゲームの質を測れる概念でもないのだ。

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