高度1億メートル 10
Before…
【十六】
頬をはたかれたことよりも、その腕に絶句した。悲しみのあまり流れそうになった涙は、口内の、喉の水分と一緒に蒸発して消えた。
「その、腕…」
「見ればわかるでしょ!こんなんだから、わたしはここがいいの!ヒイラギはここにずっとはいられないって薄々分かってた。だから諦めるつもりでいたの、わたしだってヒイラギのこと大好きだよ!でも住む世界が違う。いつか絶対お別れの日が来るって思ってたから今日は決心してたのに、簡単に言わないでよ!」
宇宙へ咆哮するセイラの瞳は、今まで一度も見たことがなかった。あれだけとろりとして癒しを与えてくれたそれは狐より鋭く、俺を切り裂かんとばかりに睨みつけている。
返せる言葉が無かった。中途半端な言葉はたちまち潤いを失って渇き風化する。何を言えばいいのか、俺がこうさせてしまったのか。
「じゃあ話してあげるよ、ここに来るまでに何があったか。聞けば満足するんでしょ?もう半端なこと言わないで諦められるでしょ!」
絶叫を続けるセイラに、頷くことすらできなかった。
【十七】
「わたしが生まれたのは、至って普通の家だった。双子の弟のイロドリがいて、とっても仲良しで、お父さんもお母さんも優しかった。」
「わたしとイロドリは同じ高校に通った。成績も決して悪くなくて、イロドリとはテストの度に点数鍔迫り合いで笑い合ってた。どっちが勝っても、両親は喜んでくれた。でも大学入試間際になって、一瞬で崩壊した。」
「お父さんが会社クビになった。部下を庇って責任を負ったって言ってた。それからお父さんノイローゼ気味になって、お母さんが荒れた。」
「入試の日、わたしもイロドリも全力を出せなかった。受けた学校は違ったけど、帰りに待ち合わせして、駄目だった、って話した。帰るのが嫌だった。でも帰らないといけない。どうだった?って死んだ顔したお父さんから聞かれて、二人とも微妙、って答えた。お父さんは俺のせいでって言ってますます落ち込んだ。そんなことないって言ったけれど、姉弟揃って不合格の通達が来た時、お父さんは家でずっと泣いてた。お母さんは怒り狂った。」
「まずお父さんに当たった。あんたが部下なんかに同情しなければって。お父さんはひたすら謝って泣いてた。」
「そして姉弟に矛先が向いた。あんたら今まで何やってたのって。半分飲みかけだったお茶の入ったペットボトルで殴られた。イロドリは、わたしが守ったの。こうやって、手を広げてね。」
「イロドリも泣いてた。でもわたしは泣かなかった。最後にお姉ちゃんらしくしようと思って、ずっと殴られ続けても泣かなかった。」
「あれだけ笑顔が溢れてた家庭が、わたし達の不出来が最終的な引き金になってぶっ壊れた。」
「何もかも全部、嫌になった。」
「その日の夜、夢を見たの。」
「星の海で、この場所で、寝転がってた。」
「不思議と居心地が良くて、その時に夢だって分かってた。現実が嫌になって、二度と醒めなければいいのにって思ったんだ。」
「それから、わたしはずっとここにいる。」
「何時間経ったか分からないくらいここで過ごしてたら、泣き声が聞こえたの。あの時、お母さんから守り続けた時に後ろから聞こえてた、あの声。」
「聞き間違えるはずがなかった。大好きなイロドリの声だった。わたしはその声の方に歩いてった。そしたら、宇宙の片隅で蹲ってるイロドリがいた。」
「声をかけた。ごめんねって。そしたら気付いてくれて、姉ちゃんって言いながらすっごく泣いてた。現実のわたしは行方不明になってて、ずっと捜してたって教えてくれた。わたしは何度も謝った。勝手にいなくなってごめんねって。」
「そしたら、頭の中でここに来る方法が浮かんだの。根拠も何もない。突然このことが当たり前みたいな、何て言えばいいか分かんないけど、世界の常識を思い出したみたいに。」
「それから、時々イロドリが来てくれるようになった。わたしは浮かんだものがある程度具現化、っていうのかな。必要なものが出せるようになってた。このパソコンも、元々ドラマで見て銀行員に憧れてたからなのかな。気づいたらここにあった。いつの間にかやり方が分かってて、極星銀行を開いた。どんな仕組みかは今でも分からないけど、何をすればいいかは直感的に分かった。」
「でも、どうしてか食べ物とか飲み物は欲しいものが出せなかった。きっと姉弟の繋がりだからなのかなって今は思ってる。」
「ヒイラギが来た時はびっくりしたよ。本当に。今まで誰も来られなかったとこに来てくれたんだもん。好きって言われて、すっごくすっごく嬉しかったんだよ。でも、わたしはここにいるしかない。」
「だから、もう分かって。わたしはこの世界の住人になってるの。現実でもきっと、わたしより良いひとに絶対会えるから。わたしのことは忘れちゃっていいよ。今まで変に期待させちゃうようなことしててごめんね。わたしは忘れないから、ヒイラギのこと。」
セイラは語り出してから徐々にクールダウンし、語り終える頃には彼女はいつものとろんとした優しい瞳に戻っていた。でも、その瞳はとても寂しそうに見えた。
【十八】
「そっか…。ごめん、軽はずみだった。」
カラカラの喉から辛うじて謝罪を捻り出した。
「いいの。わたしも怒っちゃってごめんね。もう、さよならだよ。今まで一緒に過ごせて本当に嬉しかったよ。これで、お別れ。」
干乾びた唇に、潤いを与えてくれた。今までで一番優しいキスだった。
目を開くと、いつもの寮の部屋だった。買ったはずのプリンは消えていて、ふと思いついてスマホのメッセージアプリを開いた。「彩」というアカウントは、いくら探しても見つけることはできなかった。唇にはまだ少しぬくもりが残っていたが、喉は渇き切っていた。冷水器へ行って水を飲める限り飲んだ。喉が一度鳴るごとに、あの空と宇宙の境界で過ごした時間が蘇った。そして、蘇ったそれは喉を通過して消えていくようだった。
そして、卒業の前日まで、いくら眠っても夢を見ることはなかった。
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