神は手に宿る
私は今日まで小さい頃の記憶がなかったのだが、今日ひょんなことから6歳までやっていたことをふと思い出した。そして、自分を変えるためにある決意をした。
まずは、思い出した経緯を語ろう。風呂で湯船に浸かりすることもなく手遊びをしていた。(ここでいう手遊びというのは手を使った総合的な遊びではなく、手のみを使って何かを表現する遊びとして定義する。)
そんな手遊びをしているときになぜか懐かしい気持ちになった。そう、幼い頃私は手遊びが好きだったのだ。
私が幼稚園に通う頃、友達もおらずコミュニケーションを取ることができなかった。正確に言えば自分自身の考え方が社会と合致している自信がなく、かつそれを社会的に表現しようと努力するのがめんどくさかったのだ。何より退屈しなかったからだ。
私は手は全てを創造する神様であると信じ、バスの移動時間、園内にいる時間、園庭にいる時間、、、1人でいる場合はずっと手を使ってあらゆる想像を巡らしていた。
1. 両手を違う動物に見立て戦わせる。
2. ピクニックに出かけた右手を左手が襲う。
3. 手が何もせずに休日を過ごす。
4. 左手が病気にかかり、右手が看病する。
5. 右手が左手をあまりに卑怯な方法で虐める。
…など、考えればおそらく考えるだけあっただろう表現の沼に溺れていた。そして、気づいたら小学校に上がっていたという次第である。
つまり、何が言いたいかというと私に幼少期の記憶がないのは自分にとって手とは、脳と独立して、人の中に宿る神だと信じ込んでおり常に神と会話していたためである、ということである。そのせいで、自分は6歳まで友人なしでも退屈することなく(或いは神に縋るしかないほどに退屈し、絶望していた可能性もあるが)過ごしていた。
これを思い出した今、今日からある決意をしようと心に決めた。
突然だが、私は自分自身を褒めることがあまりに苦手である。やること全てが破綻的で何かをすれば睡眠時間を潰すほど熱中し、やることがなければ逆に果てしなく睡眠をとる、そんな自分を褒めることなんて素直になればなるほどできないのだ。そんな自分の気持ちに嘘をつけないことが何よりの負の根源である。
そこで、私は今日から毎晩手をほめてやろうと思った。従来の私の考えでいくときっと本当に私の手には神が宿っているはずだ。その神はどんなに自分がダメな時でも何かしら働いているし、常に動き自分の欲求を満たすためにあらゆる"手段"で努力する。そんな手を誉めない道理はないのだ。
手を褒めることで、神を崇めることできっといいことがあるはずだから。
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