ずっと「書く人」になりたかった
以前書いたnoteがコンテストで賞をいただいた。
仕事で半年以上担当していた、だいすきな患者さんのことを書いたnoteだった。次の行き先へ送り出した今でも、声や表情、歯並びや手足の冷たさ平たさまで鮮明に覚えている。すこしでもこの人が良くなればと、身体のあちこちに触れたことを思い出す。その方が使っていた病床のベッドを見ると、今でもそこにいらっしゃるような気がするのだ。何年経てどもご一緒した患者さんのことは担当/代行にかかわらず覚えているけれど、担当した患者さんの中でもとりわけ印象に残っている、そんな患者さんだった。
だからこそ、この人のことを書いた文を多くの方に読んでいただけることが嬉しかった。
もう何年もこうして趣味で文を書いてきた。わたしは文を書くことを「感情の供養」だと思っていて、心が揺れ動くたびにせっせと文を書いてきた。このnoteで文を書き始めて5年近くが経つ。有難いことに私営のコンテストで賞をいただいたり、別メディアの掲載でAmazonギフトカードをいただいたりすることがここ1年ちかくで数回あった。ルーズリーフにひとり書き散らしていたものが、数多の人の目に留まるようになり、好きだと言っていただくことがちらほら出てきて、お金になった。
お金になったから嬉しいとか、お金にならない文を書くつもりはないとか、そんなことではない。けれどなんというか、「わかりやすかった」のである。多くの人の心に届いたということが。わたしの感情が、誰かに伝播したことが。
ずっと、文を書くのと同じくらい文を読むのが好きだった。本が好きだったし、実家にいる頃は自然と新聞も読んだ。それだけでは飽き足らず、説明書や辞書や生徒手帳までも読んだ。とにかく文章を追うのが好きだった。小説の編集者になりたいと思っていた時期もある。誰かが生み出すものを、いちばんはやく受け取れる人になりたかった。そう思っていた。
けれど最近ふと気付いたことがある。
わたしは多分、「読む人」ではなく、「書く人」になりたかった。
本を読むのは今でも好きだ。昔ほどの耐久性が無くなってしまったとはいえ、書店に行くと変わらずワクワクするし、待ちに待った本を開く瞬間の高揚感は変わらずそこにある。読み終えるまでのページが少なくなってきたときの「一気に読んでしまいたい」と焦る気持ちや、「でもこの幸福な時間が終わってほしくない」と一度閉じてしまうような相反する気持ちも変わっていない。
けれど、世の中に数多ある仕事の中で「読む」ことを仕事にしたいかと言われたら、それは違うような気がしてきた。
わたしにとって読書は逃避であり娯楽だ。教養を得るため、知識を増やすために読むのは専門書や文献であり、あれは読書というよりも勉強や吸収に近い。それよりもっと淡いところにある。食や旅行について書いたエッセイや、誰かの感情の揺れを描いた小説が特に好きなのもそれ故なのかもしれない。良い意味で頭を使わず、心をすり減らさず読めるもの。嗜好品に近い。
それに対して文を書くことは、どこか能動的だった。
もちろん趣味に過ぎないけれど、その中でも心のどこかで「これが仕事にできたら」という気持ちは捨てられずにいる。たまたま今の医療の仕事がとても好きで、性に合っているからこの仕事を続けているけれど、もし違う職を選ぶなら文を書くことを選びたかったのかも、とおもう。ライターや小説家、新聞記者みたいな仕事に対する憧れは多分今後も尽きない。
今はこの仕事が好きだ。患者さんと苦しみを分かち合いながら、スタッフと一緒に悩みながら、ああでもないこうでもないと考える日々が好きだ。言語聴覚士という仕事が天職だと思っている。
でも、もし「書く人」になれる機会があるなら、飛び込んでみたいかもしれない。どちらかひとつ、ではなく、兼業として飛び込めるなら、尚のこと。
「あなたの選ぶ言葉は人を傷つけない。耳の痛いことでもニコニコしながら、でもちゃんと言ってくれるからスーッと聞ける」
そんなふうに言ってくださった患者さんが、前にいらしたことをふと思い出す。「書く人」になれなくても、「書くのが好きな言語聴覚士」で今はいいのかもしれない。「たまに文書きになる言語聴覚士」になれたら最高だ。そうなるために、磨くしかないな。感受性とか、余裕のある心とか、文章や人の考え方を美しいと思える心とか、そんなもの。そうしたらきっと、「書く人」になるより早く、今より素敵な人になれるだろうし。