【まくら✖ざぶとん】①⑦⑥『さよならとしまえん』
さてはてしばし更新が滞っているうちに暦は早くも八月末日、この暑さが続くなら夏の終わりはまだ先のことで夏より前に終わりを迎えるのが都内にある某遊園地、てなわけで此度の一席は久々に時事と書いて「トキゴト」と読む時事ネタ、世間一般を賑わす関心事と自分一人を騒がす乱心事が一致することは少ないけどとしまえん閉園のニュースはまさにそれ。
閉まる閉まると聞かされに聞かされていたここ十年弱、いつかこの日が来ることをずっと覚悟していただけに思ったより長く持ちこたえたような、それでもやっぱりもう少し続いてほしかったような、たとえば遊園地の閉園や映画館の閉館にあたって誰もが抱きがちな感慨を自分もなぞっていることが嬉しいような悔しいような、とにかくもう今日で終わりなのである。
なんだか変にセンチメンタルになってしまっているが別にエモくしようとかオモくしようとかはセンチメートルどころかミリメートルほども思っておらず、むしろ少なからぬ思い出と思い入れがあるわりにはいともあっさりとすっきりしようとしている。事もあろうに閉園間際のその場所に通い詰めるなんてことはおろか、わざわざ枯れ園も黒山の賑わいとして加わることもせず、その様子を拝みにいくような甲斐甲斐しさすら見せないのだから。
当たり前のようにそこに在った場所がなくなってしまうとき、
――もしそのことを受け入れられているならば――
なくなってしまうことを当たり前のように見届けるしかない。
気持ちというか心持ちをあえて言葉で言語化かつ文字に具現化するならそんな風になるのかもしれないけど、必要以上に当事者意識で感傷的になってみた勢いで感情的になりすぎるのもいけないし、不要以下の第三者目線で鑑賞的になってみた報いで勘定的になりすぎるのもいけない。
小学生以前は近所の遊園地/プールとして、社会人以降の近年は遊園地/プールとしての場所とは異なる関わり方をしてきたけど、思い返せばここ数年は遊園地全体が同じような形で衰退の一途を辿ってきたような気もする。
そう、自分はその過程を目撃してきたのだ。
だから、閉園直前の盛り上がり、燃え上がる風前の灯火をあえて目の当たりにする必要はない。
としまえんの衰えていく姿を見られなかった人たちが、唐突に報された別れを惜しみ、わりと近くからもうんと遠くからも、細く長い蝋燭の上で揺れる灯火に油を注ぎに訪れる。訪れてくれている。
そこには加わらなくていい。
たぶん、加わらないほうがいい。
なんとなく、そんな気がするのだ。
そして、盛大に賑わしてくれたみんなが帰った後、遊園地としての使命を終えて静けさに包まれたとしまえんの前をふらりと通りがかったら、そっと耳打ちするのだ。
「ありがとう」や「お疲れさま」なんてのはキャラじゃないから、そう。
(エクスペクト・パトローナム…!!)
誇るべくは、としまえんも最期の最期までとしまえんらしかったこと。
さよなら、としまえん。