自由と責任と個性とわがまま
以前、ブログに載せたこんな記事が、
Twitterで再掲されていた。
お時間あるときにご一読ください。
あらためて読んでみると、
本当にその通り。
ちょっとした変化に気づくかどうか。
見逃さないかどうか。
手に入れるかどうか。
最近、学生に言ったことがあります。
A,当たり前のことを
B,バカにしないで
C,ちゃんとやる
このA,B,Cが本当に大事。
なんなら、これができているだけでも、
かなり優秀な部類になる。
最大のパフォーマンスを出すためには、
最善の準備と最大努力下における取組が必要。
下手になるために練習しているわけではないのに、
上手くなるために100%やっていない。
わかってはいるけども、
授業の課題があったり、バイトがあったり、
プライベートなことだってある。
それでも、
自分に嘘をつかず、
一点の曇りもなく、
将来生まれてくるかもしれない娘に誇れるような、
そんな取り組みをしていってほしい。
高校生時代と比べると圧倒的に自由度が増す学生生活。
それに伴う責任は自分で取るべきだ。
という話をすると、
自分のペースでとか、
自分ってこうなんですよ。
という人もいる。
ダイバーシティもジェンダーレスもなんでもいい。
個体はみんな違う。
違いが前提にあることは間違いない。
だからこそ、個性に逃げてはいけない。
個性はストロングポイントとして使うべきだ。
自分にとって都合の悪いことや、
集団の規律の中で合わないことを
個性という言い訳や逃げ道において
許されてしまっては、
組織として機能しなくなり、
おかしくなってしまう。
それは単に、わがままだ。
できま線は引きません。
やりま線は引きません。
と自分に打ち克つためにも限界は引かない方がよい。
しかし
わかっているけどそこまではやりたくありま線。
というのは個性でもなんでもなくて、
わがままになる。
集団や組織が目指しているものに
そぐわない、相応しくないのであれば、
それを個性と認めてしまう危険性がある。
管理職やキャプテンをしている人間は
人を評価したり、マネジメントしたりすることが
大きな仕事になるし、ストレスになる。
このご時世、圧力を感じられてしまうと、
なんとかハラスメントになってしまう。
最大限の個性を認めつつも、
やってもらわなければならないことは、
やってもらわなければならない。
個性というのは自由だ
自由に責任が伴うのと同じで、
個性にも責任が伴う。
自分の生き方に責任を持つ。
それが個性になる。
個性を主張しておきながら、
その責任は取れません。
というのは、わがままだ。
Just a Wagamama.
個人の生き方なんだから、というのは
個人でやればよい。
個人で責任を取ってくれたらよい。
もちろん、人に迷惑をかけない範囲で。
人を不快にしない範囲で。
法に触れない範囲で。
ただ、集団に属していたり、
組織に所属したいのであれば、
個人として集団として、
両方の責任を取らないといけない。
義務と権利と似ている。
義務を果たしていないのに、
権利ばかり主張されても困る。
責任を取れないのに、
個性ばかりを主張されても困る。
みんながみんな画一的な
おりこうちゃんのロボットみたいになれとは言わない。
ただ、自分の都合のいいときだけ個性や権利を主張しても駄目だ。
義務という最低限を果たしたうえで、
個性という自由と権利を主張し、
責任を果たさなければならい。
集団におけるマネジメントは、
このバランスが大事になってくる。
そして、それらの調和は、
集団の性格や規律、文化になってくるのだと考える。
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