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精神医学と宗教 近藤章久講演 1964/3/30 4

精神医学と宗教 近藤章久講演 1964/3/30 4

こういう現象を、それぞれの見方で解して、フロイドは〈自我の強化〉と呼び、フロムは〈生産的自己〉の回復と呼び、ホーナイは〈真の自己〉の成長と言ったのです。

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さて、以上のように一応精神分析を理解して、仏教との関係にうつりましょう。
仏教は、 人 間を、苦悩している存在として発見しました。生・病・老・死の四つに関して、苦しみ、悩むのが人間の現実であると観じこれを四苦と呼びました。更に〈愛するものと別れる苦しみ〉、〈憎むものと会わねばならぬ苦しみ〉、〈求めるものが得られない苦しみ〉、(身心から生じて来る苦しみ〉を含めて八苦と呼びます。
このような人間の苦悩の事実を直視し、それを直面することから仏教は始まったと言って過言ではないでしょう。精神医学が対象とするの も、苦悩する人間であります。死や、病や、 老につ いての不安、 恐怖、愛憎、欲求不満、等の身体的、 心理的苦しみに悩んでいる人間であります。 こういう点で、大きな共通点があるようです。
仏教は次に、その ような苦悩の原因を追及して、老死・生・有・取・愛・受・触・六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)・名色・識・行・無明に及び、(十二因縁)無明即ち正しい認識の欠除に基くものとするのです。無明は、又、同時に正しい認識が欠除していることを知らないということも意味すると言えます。
そのような、二重の無知を意味する〈無明〉が作用して―(行)―人間の意識に影響し、〈意識〉は意識する主体として、意識の対象を立て、心身を分別する。それと共に知覚の機関としての六官(六処)は、それぞれの対象と接触(触)して、対象の印象を受けて、(受)感覚を生じます。更にその感覚的な刺戟で欲求が生じ、快楽の追求(受)を生み、それへの執着(取)に従うことが(生)であり、そのような生のあり方が脅かされ、奪われると恐れるところに(老・死)に関する苦しみが生じると言うわけです。
これを言いかえますと、人間の苦悩は、真実を知らないこと――正しい認識の欠除のために、自我を実在するものとし、自我の欲望による快楽の追求(愛)に執着して生きることから生じることになります。愛は又別の表現をすれば、食欲であり、所有欲であり、愛欲であります。苦悩はこのような欲望の追求から生じます。このうちで、性的快楽の追求は、実にフロイドが快楽原則と呼んだものと同じであることに気付かされます。先に述べたように、フロイドは、幼児の皮膚粘膜の接触による快感追求を論じています。これは、右に述べた〈触〉・〈受〉・〈愛〉に当てはまるものではないでしょうか。そして、それに固着することが、神経症的症状であると考えているのは、又、執着固定を意味する(取)が、苦悩をもたらすと考えるのと同様なことにならないでしょうか。
仏教は又、苦悩の根本を人間の心に置いています。
〈十二因縁分は皆心に依る〉とか〈心は一切法を生ず〉とかの表現があるように、苦悩は人間の心から生じたものとするのであります。さて先に、精神分析の考えによる心の構造を説明しましたが、仏教はどのように心の構造を理解しているでしょうか。
仏教では、私達が意識し得るものとして、私達の感覚器官、即ち、眼・耳・鼻・舌・身に於けるそれぞれの作用を、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識とに分け、それぞれが、形色、音声、香臭、味、触をその対象として作用するとします。そして、このような識が対象を明らかに覚知するために、意識が存在しています
意識は、対象として、 単に知覚や外界、身体等をもつばかりでなく、観念や記憶もその対象となり、計量分別し、観念を作り判断する等、知的な作用を持っているわけです。大体、現在私達が使っている意識と同じ意味と解せられ、客体に対する主体として自我を形作るわけです。
しかし、私達は現実に於いて、意識による決意や行為が、それと矛盾した意識以外の心の作用によって、乱されることを経験します。これは、精神分析が、無意識と呼んだものの作用ですが、仏教に於いてもこの事実を認めるのであります。この無意識に属するものとして、仏教では、意識の根拠に、潜在的な、自我にかかわる無意識な心作用――我執を主とする識をみとめて、マナ識と呼びました。このマナ識の根拠となるものは、心王と呼ばれるアラヤ識で、人間生命、自我の本質であるところのものです。
〈アラヤ識〉は、私達の心の働き及びそれによって行われる諸行為の原因となるもの(種子)の全てを蔵している意味で、蔵識とも訳され、又種子識とも言われています。このアラヤ識は、過去の経験の結果としての種子と、マナ識その他六識の影響によって生じた種子を含みます。その発現の経過は、まず過去の結果としての種子が、それを助長する縁となる種子に助けられて、アラヤ識自身が発動し、この発動と共に、マナ識以下の心識とそれに対応する境界とが生じるのです。
マナ識は、アラヤ識を自我として愛着し、それにかかわり、それをもととして、ここに自我意識が生まれます。マナ識及び意識の作用は、アラヤ識に影響を与えますが、その印象はアラヤ識の中で種子として保たれ、縁に会えば、直ちに再び自我意識として作用し、ますます強化されるのです。このマナ識によって、アラヤ識を、実在する〈自我〉として考える〈我見〉が成立し、自己中心の感情が起り、自我を最高と考えて愛着する〈我愛〉が生じ、又他を劣少と考えるために〈我慢〉が起り、全体として、自分自身の本質を知らないところに〈我癡〉が生じます。 これを煩悩と呼びますが、このような、マナ識の自我 に関する盲目的な態度によって、様々な人間の苦悩が結果するものなのであります。
精神分析に於いて、フロイドは、はじめて無意識の考えを提出し、そこから、人間の意識を攪乱する様々な現象が生じることを説明しました。仏教に於いても、同じく、意識を支配するものとして、以上のように、マナ識・アラヤ識を説き、それが、心の本質として、人間の心の作用を現象するものと見るのであります。
フロイドは、無意識の中に、性的リビドーを考えますが、仏教的に見れば、それは貪欲であって、マナ識に縁起する我愛からくるものであると考えられます。むしろ、我愛を、自己愛(ナルチシスム)と考えれば、ナルチシスムが、むしろ原因であると言えるかも知れません。フロイドは又、意識を自我として、重要視しますから、自我によって、無意識を処置しようと考えます。仏教的に見れば、この自我こそ、マナ識をもとにして生じたものであって、それ自身、自 らを主体として主張することによって、様々の混乱と苦悩とを招いているもの、即ち苦悩の原因そのものなのでありま す。同じく、無意識を認めながら、ここに大きな根本的なちがいがあるのです。
ユングが、無意識の裡に、民族や社会の歴史の経験の中で成立した概念や、ものの見方、感情、感覚、 直観などが心的内容として存在しているとして、これを〈集合的無意識〉と呼んだことは、前に申し上げましたが、アラヤ識は、同じく無意識であると共に、それ自身過去の様々な原因から変転して成就した結果ですから、 その中に過去経験の集まりである一切の種子を含んでいるのであります。その意味で、ユングの集合的無意識と同様なことを説いていると思われます。但し、アラヤ識に於ける過去の経験は、単に、民族や、社会や、人類の経験にとどまらず、時として始めなく、処として際限のない一切の経験を含んでいるという点で、差があります。
さて、ナマ識と意識とは、相まってその作用として自我の実在を信じ、自我の意識を中心として、一切の対象を判断し、それを実在として、自我に執着すると同じ様に、執着します。そして、実在として信ずる仮幻の対象に、自分勝手な、感情的な反応を起こしたり、間違って判断をして、それによって、苦悩するのです。
このように見られた自我と対象の存在の本質を、仏教では、遍計所執性(すべてのはからいによって執着の対象となったもの)とむずかしくよびますが、例えば、暗夜に一本の縄を見て、蛇だと思いこんで、驚き怖れたけれど、それは、実は縄だったという例が、仏典に引かれています。これと同じ様な心的現象を、色々なことについて起すのが、この本質であります。つまり遍計所執性的存在と言うのは、幻影的な存在であり、実体はないものと言うわけです。
私達は毎日、自己中心的な色々な価値の追求を、富とか、権力とか、地位とか、愛情とか、幸福とか、安全とかの形で行っております。そして、それによって気が付くか、付かないかは別として苦悩しているのです。
ホーナイはこれを神経症的価値の追求と呼び、そういう追求をするのは、それらの価値をもって飾られた自我像を画いて、それを自己と考えているからだとして、〈仮幻の自己〉の要求に、強制されている姿であるとしたのです。
サリバンは、対人間関係に於いて、相手を、自分の安全の要求から、ありのままに見ることをしないで、自分に都合のいいような形に無意識的にゆがめて考えることを、パラタキシックな歪み、と呼びました。このように、自分に関しても、他人に関しても、ゆがんだ考えをもっており、それに基づいて生活している私達の実体を精神分析は明らかにしました。
ホーナイも、サリバンも、このような現象のもとは、自分の安全感の危険――つまり不安によるものだと観察しております。自分の安全にのみ関心を持つということは、仏教でいう、我愛のあらわれではないでしょうか。そして、我愛を生ずるマナ識、及び自我を固定する意識が、このような幻像や歪みを生み出して、しかも自らそれに執着する事によって拘束され、苦悩という結果をもたらすのであります。こういう点で、精神分析の知見と仏教の理解するところを、図らずも、一致するのであります。
さて、遍計所執は幻覚的存在であるにもかかわらず、私達が、それを恰かも実在であるかの如く考え、それを実在と信ずると同時に、自我中心的な様々な価値感を与え、その価値感によって、誤った知的な営みや、感情的な反応を示しつつ転々として、次から次へと行動することが、私達の苦悩の原因であることは明らかであります。
とすれば、遍計所執性存在が、幻影的存在であり、縄はあくまで縄であって、蛇ではないのですから、縄は縄であるという認識――客観的な認識が必要であります。

8

仏教によりますと、アラヤ識の種子によって、マナ識及び六識が生じ、これに因って、見るものと見られるものとの分別が生じ、主観界と客観界が出現すると理解されます。このように、主・客の両界は、それが、それ自身によってでなく、他を原因として生じたものですから、依他起性(他に依って起こるということ)と呼ばれます。従って、因縁によって生じた存在ですから、又、因縁によって滅する存在であるということになります。
フロイドは、リビドーの従う快楽原則は、リビドーが現実と出会う時に、現実と現実とし、客観を客観として認めることを要求する、自我の現実原則によって阻止されるとしました。この場合、客観を客観として認めるのは、自我の意識の働きによるのであります。
サリバンは、対人関係に起こるパラタキシックな歪み――即ち、他人に対するいろいろな幻想的な評価――が、治療によって訂正されねばならないが、それには、同一の人に関する自分のもつ評価と、他人の評価とを比較することが大切であると考えています。自分の評価と他人のもつ評価とを比べることによって、別に考え方があることを知り、自分の評価の独断的なこと、主観的で幻想的であることに気が付きます。もとより、他人の評価も同様に独断的、幻想的であることがありますが、少なくともそういう見方を認めることによって、幻想的な、狭い、独断的な見方から、もっと広い客観的な認識に近寄ることが出来ると考えるのであります。
ホーナイは、不安から自分を防衛するために生まれた私達の想像の産物である〈仮幻の自己〉は、当然、自分自身に関する幻想でありますが、同時に、他人を評価する場合に於いても、この〈仮幻の自己〉の要求によって、その要求の命ずるように評価するので有ります。例えば、全能な権力者という自己像をもっている場合は、他人は当然自分に従うべきものと考えますから、その人にとっては、他人は、権力への奉仕者、道具、奴隷、又は、自分の力を認めぬ許しがたい反抗者という風に見られます。つまり、他人を人間として、あるがままに受け取ってはいないのです。
このように、自他に関しての誤まった考えは、結局〈仮幻の自己〉という幻想から出ておりますが、この〈仮幻の自己〉は、いつも、二つの方面から脅かされています。一つは、現実の世界であり、もう一つは、内に潜む〈本来の自己〉からであります。
もとより、治療に当たって、このような〈仮幻の自己〉が露わにされ、フロイドのいうように、現実を現実として認識する、客観的な態度が確立されなければならないのは当然なことですが、ホーナイは、そういうことが、自我の意識の強化だけで容易に出来るとは考えないのです。何故かと言えば、〈仮幻の自己〉を立て、それに固執しなくてはならないのは、不安だからです、不安から身を守るためにこそ、それが必要だったのです。
ところで、この〈仮幻の自己〉がなくなることは、本人にとって、例え幻想的であろうとも、安全を感じる自分がなくなることです。そして、それがなくなれば、何も、たよるものがない、不安だけが残るのです。これは恐ろしいことです。だから、執拗に〈仮幻の自己〉に固執するのです。
ですから、たとえ〈仮幻の自己〉の幻想性を自我が意識しても、右の様な理由で、意識することは却って不安に導くのですから、ただ意識したくないのです。又、意識したところで、安全感が得られるわけではないのです。だから、意識の強化ということは、決して容易なことではないのです。
従って、ホーナイは、〈仮幻の自己〉の認識に助力すると共に、潜在する〈本来の自己〉の発展に関心するのであります。〈本来の自己〉の存在に、気がつき、それの成長こそ、自分の成長であると覚り、〈本来の自己〉によって生きる時に、はじめて、現実を現実とし、客観を客観として認め得ると、ホーナイは考えるのであります。
以上の説明によって、精神分析に於いては、現実を現実とし、客観を客観として、認識する正しい主客の関係を、強調することを知ることを知ることが出来たと思います。そして、このような認識が、自我の意識によって可能である、とすることも明らかであります。唯、例外として、ホーナイが、客観的な態度の重要性を認めながら、それが単なる意識の強化で充分でなく、〈本来の自己〉の発展によって確実にされると考えているわけであります。
さて仏教に於いても、先に述べたように、遍計所執的認識は、誤まつた認識であるとして、認識の依他起性を明らかにします。縄は縄であって蛇ではない、即ち縄を縄と見、蛇と見ない、正しい客観的認識を認める点で、西欧に発達した精神分析と同様であり、又、認識が意識の作用であることを認める点でも、共通しているようであります。
しかし、仏教は、人間のもつ意識に対して、西欧の考えの示すような、手放しの楽感的な考え方をもってないのです。もとより、精神分析は意識に対して無意識の作用を発見し、その意味を強調しますから、必ずしも意識を主として考えているわけではありませんが、結局に於いて、フロイドが言った「エスあるところに自我あらしめよ」という言葉のように、無意識を意識によって明らかにしていくことを行っているのであります。そして、その限りに於いて、立派な役割を果たしているわけですが――。
仏教の教えるところに従えば、先に申し上げたように、アラヤ識内の種子が縁によって、マナ識、意識及び他の五識として結実し、これによって、主観界と客観界の分別認識が生じてくるのであります。しかし、マナ識は、意識の根拠となりますが、一方また、誤まってアラヤ識を自我として、それに愛執しますから、常に意識に影響して、我執を起させます。このことは、意識が、正しい主・客の関係を形成するのを困難にさせます。
言いかえれば、マナ識の自我愛が意識に染着する限り、正しい主観界、客観界の姿は現われないわけであります。このような理由で、意識の客観的認識について楽観的になれないのです。ホーナイが気づいた、自我の不安ということも、それが誤まった自我愛から生じると解すると、不安が現実の客観的認識を妨げる理由が明らかになり、ホーナイの言うところが、仏教的立場からも理解できるのであります。(つづく)

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