このまちの福祉を支えるんだ!!(市役所前半)
地元、益田市に戻ることは私にとって当たり前だった。
何も、考えず、「自分のくらすまちの福祉を私が支える!」と思い込み、就職活動は島根県職と、益田市のみを受験。
そんな戦略も何もない就職活動でも、益田市役所に採用してもらったことはラッキーだったかもしれない。
いや、思いだけは強かったから、私を落としたら損するぞ!くらい考えてたかもね(笑)
市役所に入り、福祉事務所に配属された。
大学での学びを生かせるんじゃないかと期待するスタート。
最初に担当したのは日赤関係と、軍人恩給のお仕事。
時期ごとに献血に協力してくれる職員のお願いと予定を立てることがお仕事だった。新人ながら職場に挨拶して回り、献血の協力をお願いした。
まったく知らない職場に入るのはめちゃくちゃ勇気がいったけど、私の名前と顔を知ってくれる職員さんがすごく増えて、その後の仕事もやりやすくなった。
軍人恩給は、若い私からは遠い世界の話だったけど、
おじいちゃんやおばあちゃんが、戦争のころの話をいっぱいしに来てくれた。
全然仕事とは関係なかったけど、私はひたすら話を聞いた。
こんな若い私に、帰り際手を合わせるおばあちゃんがいて、愕然とした。
私はなんもしていない。えらくもない。
でも、おばあちゃんから見たら「おかみ」という存在なのだ。
私は、この関係に慣れてえらそうにするのではなく、いつも目の前の方と対等に、尊敬の気持ちをもって接していこうと心に決めた。
そうして3か月がたったころ、課内での担当替えを伝えられた。
今度は、母子家庭の相談支援担当。
まだ、社会に出たばかりの、結婚もしていない私。
相談内容は経済的相談や、子育ての苦しさのこと。
私に相談なんて嫌だろうなぁ、と感じつつも、何かしなきゃと焦ってた。
でもまた、3か月くらいしたら担当替え。
まじかよ!!と思ったが、半年たって職員さんの顔もわかり、大好きな係長さんの係だったから、うれしい気持ちもあった。
いつもあまり笑わない係長さん。でも、きちんと筋が通ったことを教えてくれるのと、時々ふっと目じりが下がる瞬間が見れるとやった!って気持ちになったんだよね。
担当は保育園の入園手続きや補助金関係の仕事。
益田市は当時、私立保育園が26園、公立保育園1園と、人口のわりに保育園の数が多かった。そのため、それぞれの保育園の特色を出すべく、延長保育・休日保育・一時保育などサービスも充実していた。
月齢二か月から入所でき、ほとんどの子は一歳前に入園していた。
(安曇野市に引っ越してきて、3歳で保育園に入る幼稚園のような感覚にびっくりした(笑))
まったくパソコンはできなかったが、すべてのデータはエクセルで管理され、合わせて住基情報も別システムで入力する必要があった。
計算式を消しちゃったり、毎日、パソコンが固まり、強制終了を繰り返す私。
そんな私に、まさかの辞令。
「情報政策課」への異動。
福祉事務所に来てまだ、二年しか経っていなかった。
私は人と関わる仕事がしたいんだーーー!!!
~私は人と関わる仕事がしたいんだ!!(市役所後半)につづく。~
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