第2回 実践と理論の二刀流で得たもの(前編)
芳賀 均 准教授(国立大学法人 北海道教育大学旭川校)
第1回の板野和彦 通信教育課程長にご紹介いただき、今回は北海道教育大学旭川校の芳賀均 准教授にお話を伺います。
芳賀先生は、北海道宗谷管内での15年間の小学校勤務を経て、明星大学大学院 通信教育課程へ入学されました。東京都江東区で小学校教員として子どもたちと向き合うかたわら、人文学研究科 教育学専攻 博士後期課程を修了。その後、北海道教育大学旭川校で、音楽科教育、教育評価、合科的学習、へき地教育の研究等でご活躍されています。
教育者としてのこれまでの歩みを辿りながら、本学でどんなことを学び、それを教育現場での実践に結びつけていったのかについて伺います。
まずは、芳賀先生が小学校の先生になろうと思ったきっかけを教えてください。
単刀直入に言うと、学校の授業を楽しくしたいと思ったのがきっかけです。「音楽は好きだけど、音楽の授業は好きではない」という友達にしばしば出会った子供時代を経験しました。それで、自分が音楽の授業をもっと楽しくしてやるぞ!という思いが湧いてきて、教員をめざすことにしました。
大学卒業後は宗谷の小学校に勤務されていますが、なぜ北海道を選ばれたのですか?
子どもの頃は身体が弱くて、よく入院をしていました。その時に病院のベッドの上で見ていたテレビや本を通して、世界や日本が広いことを知りました。いつかその広さを自分の肌で感じたい!そう思っていたら、中学生になって身体も良くなり、全国を旅できるまでになりました。
やがて大学生になり、旅をして気に入っていた青森で教員採用試験を受けようと思ったのですが、地元と全く縁もゆかりもない青森での採用は難しいと思われたため、ならば隣の北海道だと、受けてみたら合格することができました。しかし、住むところが北海道の北端になり、青森が、東京からよりもはるかに遠くなってしまいました。
へき地教育の研究も行われていますが、北海道への赴任がきっかけになったのですか?
そうですね。実は、北海道で受験しようと決めたのはいいけれど、一度も行ったことがありませんでした。それで大学3年生の春休みに3週間かけて一周してみました。その旅の途中で、宗谷や根室という道内でも辺境に位置する土地に訪れたことが、へき地教育に関心をもった第一歩です。3月といっても、東京出身の私にとっては真冬のような厳しい環境でした。そこに自分の身をおいてみて、こういうところで生きていくと、何か人生で大事なことが見つかるのではないかと感じました。それで教員採用試験の時に、宗谷か根室を希望しますとはっきり伝えました。
赴任先の宗谷では、右も左もわからず身内もいない中で、やれることは何でもやろうと、学校の授業とあわせて地元の少年団活動(ジュニアアドベンチャークラブ:文化財愛護少年団)をお手伝いしました。そこでは、子どもたちとともに郷土史研究家の先生のお話を聞きながら遺跡を発掘したり、植林やバードウォッチングをしたりしました。そうして過ごすうちに私自身が完全に町の魅力にハマって愛着が生まれ、老後はここで暮らそうと家を建てるまでになってしまいました。
赴任した当時は、町内に小学校が6校あって、私が勤めていた学校には350人くらいいました。それが現在は1校だけになって、120人しかいない状況です。これはへき地教育の観点からも何とかしないといけないぞ、と思っています。
宗谷での15年間の小学校勤務を経て、明星大学の大学院に入学された動機は何だったのですか?
子どもたちが、成長を実感しながら楽しく勉強できるように、理論と実践の一体化を図りたいと思ったからです。当時の私はイケイケで、自分自身も、子どもや保護者も一緒に楽しい学校生活を過ごしていました。しかし、なぜそんなに充実しているのかと、側から見た時に説明不能だということに気がつきました。それで、ちゃんと言語化して人に伝えるために、理論が必要だと考えるようになりました。
しかし、その頃は理論を学ぶ手段や場所を知りませんでした。今から大学入試を受けてどこかに入り直すのも難しい。ならば、大学院だろうか?と考え、母校に相談してみました。そしたら、ちょうどそこに大学院が設置されたタイミングだったのですが、残念ながら通学課程のみでした。北海道から通うのは難しいので、通信教育課程があるところを探すことにしました。その結果、明星大学に出会いました。
「ここで学びたい!」と強く思ったきっかけは、パンフレットに掲載されていた当時の副学長だった小川哲生先生の写真とコメントでした。それから、若い人からベテランまで、幅広い方と一緒に学べるのがいいと思いました。同じ勉強をしている人だけでは、どうしても視野が狭くなります。いろいろな立場の人の経験などに触れることが、教育では大事だと感じていたので、すぐに願書を出しました。
その時、すでに35歳。実は、入学試験で一度落ちていますよね。その後すぐに受け直して合格されていますが、何が芳賀先生の心を駆り立てたのですか?
一度目の受験の時は、受講を希望する先生や、研究したい専門分野について明確にしていませんでした。これまで楽しくやってきた学校生活をもっと楽しくやりたい!という思いだけで臨みました。そしたら面接していただいた小川先生に、これでは論文を書けないよと言われました。また、具体的な形がないものは、哲学の勉強になってしまうから、明星大学大学院の対象外になってしまうので、専門の音楽科で雑誌に記事を寄稿したりしているのであればそれを研究計画として出したほうがいい、と。さらに読んだ方がいい本など、入試の場で研究についてのアドバイスをたくさんいただきました。面接の場でさえ勉強になるなんて、明星大学はつくづくすごいなと思いました。
ぜひここで学びたい、小川先生に教わりたいという思いが強くなり、1回目の試験が1月で、次が3月だったので、大急ぎで勧めていただいた本を読みまくり、研究計画を音楽に書き直して受験しました。もちろん、今度こそ小川先生にご指導いただきたいとはっきり書いて書類を提出しました。そしたら、「同じ年度に二回も受ける人はいないよ」と言われましたが、無事に合格することができました。
大学院への入学後は、何か変化はありましたか?
入学後は、北海道から通信教育で学びながら、スクーリングも全部受けました。単位も取れるだけ取りました。素晴らしい先生ばかりだったので、とにかく勉強しないともったいないと思っていました。本当に楽しくてしょうがなかったですね。
大学院で学んだ後に教育現場へ戻った時に、そこで勉強したことがズバズバ当てはまって驚きました。物事の見方が根本から変わりました。ガムシャラにやって教員としての経験と勘を養うことも大事ですが、それだけだと子どもたちを傷つける結果になるかもしれません。
しかし、そこに理論的な裏打ちがあれば、ある程度の確証をもって臨めるようになります。さらに、その知識は現状の分析にも役立ちます。こじれている問題も、アレとコレが絡み合っているから、ココを解消すればいいのだと、俯瞰で見通せるようになりました。まるで一気に視力がアップしたような感覚でした。
明星大学大学院の通信教育課程で、修士号を取得した芳賀先生。その後、東京都の小学校教員として勤務しながら、博士後期課程で研究に取り組み博士号を取得されています。後編では、研究と実践の同時進行の中で得たものや、明星大学の通信教育課程の良さについて伺います。
【後編へ続きます】