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1995年のバックパッカー18 中国8 阻朔ー成都 ライドライドライドの女の子 

阻朔もそろそろ潮時かなと思えてきたある日、僕は相棒のデンマーク人、マイケルと福江にでかけた。中国の田舎を今一度ゆっくり巡っておこうと思ったからだ。

行き当たりばったりで過ごすのは、バックパッカーらしくもある。予定など一切なく、いつも思いつきのままだ。


自転車で田園風景を進んでいると、田んぼに囲まれた小さな池の真ん中に、20畳ほどの島があり、そこに小さな平家がぽつんとあるのが見えた。僕らはどちらともなくその島に行けないかと探り、ちょうど家の前に出てきた男に、こちら岸から手を振って声をかけると、その男は小さな手漕ぎ船でこちらに向かってきた。彼は僕らと同年代に見え、割と勘も良くてこちらの意図をすぐ理解した。

男は僕らを船に乗せると、小さな島の彼の小さな家へと連れて行ってくれた。そこには一匹の子犬もいて、どうやら彼はその犬と暮らしているようだった。生業は農業か漁業だろう。もしくは両方かもしれない。


僕ら3人の間には会話らしい会話はなく、身振りを交えて何かを伝え合いはするが、そういうことは特に重要ではなかった。異国からの訪問者と田舎の青年がその暮らしの隅っこで、出会いともいえない小さな触れ合いを過ごしているのだった。そしてそれは、なんとも穏やかな時間であった。

その青年は僕とマイケルを彼の手漕ぎ舟に乗せてくれると、そのまま緩やかな川へと入り、しばらく周遊してくれた。その舟の上から見る阻朔の奇景、絶景は忘れがたい。ぽちゃりぽちゃりと水面を揺らす彼の艪の動きを眺めたり、すれ違う舟から声をかけられ微笑まれたり、観光船にはない情緒があった。マイケルも目を細めて遠くを眺め、彼なりに楽しんでいる様子だった。



その夜は、別の店で夕食をとった。レインボウカフェという名の店の名物は蛇のスープだった。店員がしりきり勧めてくるが、僕は興味がなかった。だが、意外にもマイケルが注文した。冒険心の向かう先は、人それぞれだ。


そこのオーナーのボブは例によって女の子の面倒を見てくれると言う。彼の説明によると、理髪店の奥にはそれ専用の小部屋があるからそこで済ませてくればいいとのこと。警察に捕まるリスクはないかと問うと、こういう商売は警察も長いこと黙認してるから外国人でも捕まることはない。そういう例は一つもなかったとのこと。ううん。ムーンシャインが言っていたことと違う。

さらに値段の確認をすると、ムーンシャインがかなり儲けていたことがわかった。ムーンシャインの場合は、800元かかったのに対し、ボブの話では350元で大丈夫だということだった。その内訳も話してくれた。まず女の子に150元、チップが50元。そして理髪店のボスに50元。ボブに仲介料100元。これによれば、女の子に200、理髪店のボスに50で、トータル250元だ。ボブには100元の仲介料で済んだのに対し、ムーンシャインには550元払っていたことになる。5.5倍ということだ。

これには僕も、なるほど、と感心した。さすがのムーンシャインである。理髪店ではなく、自分のカフェにわざわざ連れてきたのも仲介料を他人に知られずに割り増しするためだったのだ。

僕はレインボウカフェでボブの説明を受けた後、もやっとした感情を消化するのにしばらく時間がかかった。マイケルは蛇のスープに気を取られていて、味はチキンだな、とか言っている。

そして食後はそのマイケルも一緒に、夜のパトロールに出た。ボブに勧められた理髪店へ、わき目も振らずに歩いて行った。雨は降っておらず、アスファルトは乾いていた。

目当ての理髪店へ行くが、いい子がおらず、数件巡った。最初の夜にムーンシャインが連れてきた女の子が2件目にいたが、リピートはしなかった。

ようやく店が決まり、僕とマイケルはそれぞれ奥の部屋へと案内された。この時の子が後日「ライドライドライド」の表紙になるのだった。


店からの帰りにマイケルと並んで歩いた。それぞれの感想などを話しているうちに、いつまでこの阻朔にいるんだ?とマイケルに聞かれた。僕は阻朔が気に入っていたので、出ることをまだ考えていなかった。一方マイケルは3日後に香港に向かうことになっていると言った。

僕は、香港旅の先輩として、トラベラーズチップを彼に与えた。それはナイトマーケット近くのいくつかの通りの名前を伝えることであり、1階の入り口に座っているお婆さんが目印だということであり、平均的な値段のことだった。

マイケルは微笑みながらも時には繰り返し確認を求めたりしつつ真剣に聞いていた。さらに僕は香港でも蛇は食べれる。蛇どころじゃない、望めばいろいろ出てくるはずだと付け加えた。マイケルは、オレは蛇が好きだな、と呟いた。

そして別れ際に、明日この阻朔を出ることにしたと僕はマイケルに告げた。自分でも意外なことが口をついて出たことに驚いた。脳ではなく口が決めたような感じだった。

僕とマイケルはしっかりとハグをしてそれぞれの暗闇へと離れていった。阻朔での相棒はマイケルだった。彼とは多くの話はしなかったけれど、それでも一緒にいれた。相性が良かったのだろう。そのまま一緒に一ヶ月くらいは旅をできたかもしれない。そうしたらいわゆる親友みたいなものになれたのかもしれない。

だが、僕たちは住所も電話番号も交換せずに、それきりとなった。美しい関係というのは、一期一会なのかもしれない。

おそらく阻朔はもう昔の阻朔ではないだろう。30年近くの月日と、近年の中国の発展は、そのままでいることを許してはくれない。それは仕方ないし、発展するのは住民にとって大方良いことなのだろう。

そして僕は密かに願う。美しい月明かり、ムーンシャインが永遠に阻朔の夜を照らし続けますようにと。


翌6月9日の木曜日、朝7時発のバスで僕は柳州へとバスで発った。

途中の橋が水没していて遠回りしたので、2時間余計にかかった。さらに柳州駅では乗車する列車の出発まで4時間も待った。

僕は待つのが基本的に苦手だ。さくさく自分の直感に従って行動したいので、待たされるのは苦痛でしかない。とはいっても、ここは日本でも、東京でもない。乗り換えに数時間待つことはここまで旅したアジアの基準では普通のことなのだ。


僕は阻朔での女の子たちのことを思い出しながら、過ごすことにした。思い出になる前の記憶というのは、まだ誤差が少ないせいか、結構細部まで辿れた。その場では感じたり見てなかったことも、客観的に見れば、かなり楽しめる。僕は柳州駅の硬いベンチに座りつつも、心はほぐれていった。せめてもう一泊して楽しんでも良かったのではないかとすら思いながら。


18時になってようやく柳州発成都行きに乗車したが、ものすごい人混みと熱気だった。

しかも乗車してから発覚したのだが、僕のチケットはただの自由席乗車券で、この混雑からして今更指定席に空きがあるはずもなかった。つまり、この先の2日間を僕は立ち続けるか、濡れて汚れた床に腰を下ろしてやり過ごすかのどちらかだった。なんてことだろう。北京から烏魯木斉までの列車の旅の教訓がまったく活かされておらず、せめて柳州駅で入念にチェックしておけば指定席が取れた可能性はあった。なにしろ4時間も待っていたのだから、それくらい思いついても良さそうだった。阻朔の女の子たちとの甘い記憶に浸っている場合ではなかったのだ。

だが、そんなことを後悔しても仕方がない。それでも踏ん切りがつかずに途方に暮れていると、見覚えのある女の子2人を発見した。

その白人の彼女たちは、実は上海でも、香港でも、そして阻朔でも見かけていた2人だった。その彼女たちも見覚えのあるアジア人バックパッカーに驚いたらしく、ついに僕たちは初めて言葉を交わすことになった。約束もしていないのに、この旅4回目の遭遇は驚き以外の何物でもない。

彼女たちの名前は、カタリーナとココ。彼女二人は僕に席がないことを知ると、さっさと動いてくれた。それはまるで手品のようであった。2人はドイツ語でいろいろ相談した後、意を決したかのように早足で7号車へと向い、そこの車掌に僕のパスポートを差し出して交渉し始めた。そしていとも簡単にソフトベッド寝台席である「軟臥」を手に入れてくれたのだ。僕は喜びと驚きと安堵であっけに取られた。

列車には女神がいると思った。少なくとも僕の女運は、列車で発揮されると本気で信じた。


翌朝の朝食はココとカタと一緒にとった。彼女たちは若く、大学生のようだった。この旅4回目の遭遇を、僕たちは不思議がり、強いつながりを感じるとそれぞれが口にした。ココとカタは勉強がいかにもできそうで、二人ともメガネをかけていたが、それぞれに可愛かった。なので、強いつながりとみんなが口にした時、このうちのどちらかと付き合うことになるのかな、とすら思った。どちらもいいなと僕は浅い夢を見始めた。

そして、その日は列車の揺れの心地よさもあって、ほとんど寝て過ごした。ドイツ人の可愛い女の子とたちと僕。なんという幸運なのだろう。もし彼女たちに会わなかったらと仮定すると、ぞっとした。

6月11日の日曜日、列車は予定より少し遅れて9時10分頃に成都駅に到着した。

カタリーナとココはすでに宿を決めていたらしく、3人でタクシーをシェアして15分ほどで交通飯店へ。飯店と聞けば、レストランに思えるが、中国ではホテルを意味する。英名では、トラフィック・ホテルとなっていた。変な名前である。

その飯店は結構立派で、僕たちは当然のように3人部屋をシェアすることになった。そう誘ってくれたのは彼女たちで、無論断る理由もない。まあまあ立派な割には値段も安かった。

僕たちは同室となったが、僕にはこの街でやらねばいけないこと、個人的に行きたい場所があったので、いつも彼女たちと行動まで共にすることはなかった。

到着したその日は、チベットのラサまでの飛行機チケットを買いに行った。幸いそのホテルの1階に代理店があったので、そこで申し込めた。4日後のチケットだった。

カタとココは、成都が旅の最終地だったので、チベットに向かう僕を羨ましがってくれた。僕とて彼女たち2人チベットを旅したいのはやまやまだった。

成都を訪れた一番の目的は、三国志だった。僕は小学生の頃からその物語を愛読していて、いつかその舞台となった土地を訪れたいと夢見ていた。三国志は、史実をもとに作られた物語で、三国の争いを描いた名作だが、3国のうちの1国である蜀の都がこの成都なのだった。

僕はまずは蜀の聖地とも言える武侯祠へ自転車を借りて向かった。これは単独行動で、ココとカタはいない。そこには蜀の英雄たちの像が安置されていて、劉備、関羽、張飛、諸葛孔明などの姿をしっかりと凝視して過ごした。感無量であった。わざわざ来た甲斐があった。彼らは2000年前にこの街にいたのだと思うと、道ゆく人さえも実は子孫だと思えてきて、興奮は尽きないのであった。


旅をしていると曜日の感覚が失せるのだが、両替しようと訪れた中国銀行が休みだったことで、その日が日曜日なのを知ったという具合にだ。

その中国銀行の前で、500元で女を買わないかと言い寄ってくる者がいた。饅頭でも食べないかというぐらいの笑顔につい頷きそうになったが、まだそのタイミングではないと思い、断った。次に闇両替をしないかと寄ってくる男がいた。この者の笑顔も人懐っこく、うなずきそうになったが、やめておいた。

僕は初めから成都贔屓なせいもあって、成都人たちの明るさや人柄の良さに惹かれた。劉備元徳や諸葛孔明の威光が今も存在しているかのようだった。

夜は川向こうの火鍋屋へ行った。もちろんココとカタリーナも一緒だった。昼間は好きに動きまわり、夜は可愛い女の子と夕食を共にして、同じ部屋で過ごして、眠る。最高であった。

(つづく)
毎週日曜日0時更新。


 

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