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1995年のバックパッカー22 中国12 チベット3
あの時はああするしかなかった。
そんな過去のほろ苦い場面が誰にでもあるだろう。そして後悔たっぷりの出来事が、良い思い出へと変化するには数年は必要だ。
天啓を受けたかのような素晴らしい思いつきというのは、最良のゴールへと導くことは少なくて、ほぼ間違いなく暮らしの中の罪なきギャンブルとなる。
グラントが自転車の整備を終える頃、僕も同じ中国製の格安自転車を買っていた。自分でもそうするしかなかったのだ。国境までジープをチャーターするのじゃないのか?というつっこみもなく、最初の言葉を覚えるくらい自然にそうなってしまった。グラントは道連れの仲間が増えて嬉しそうだった。僕たちはまだしばらく相棒で居続けることになった。
僕は、グラントが揃えたチャリ旅必需品をそっくり真似て揃えた。とはいっても、自転車本体、テント、ロープ、水筒、パンク修理キットくらいではあったが。
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いくら物が安い時代の中国とはいえ、新品の自転車はそれなりにした。形だけはマウンテンバイクっぽくはあるが、鉄製かと思われるほどの重い車体は、未舗装の上り坂が戦慄の時間になることを予言していたが、僕はそれを一旦無視することにした。諸々の問題があったとしても、一度決定した後での僕は、かなり楽天的になれる性分であった。これはおそらく長旅に向いていたと思う。
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旅の準備というのは、まあ面倒だが、本来遠足前の準備と同じでうきうきする。
しかもこれまで未体験だった長距離自転車旅とやらを、いきなり世界の屋根・チベットでやることになったのだ。これは、学校のグランドでしかサッカーをしたことがない者が、いきなり国立競技場に立つようなものだ。できる、できないは、後になれば分かる。今は冒険前夜の興奮に浸るとしよう、そんなわくわくであった。
僕たちは、一通り準備を終えた。行動食と非常食の量は、重さに比例してしまうので、2日分ほどにした。水は川があることを信じて、2リットルほどしか持たなかった。2人分の知能を費やした結果としては、心許ない装備であったが、まあなんとかなるだろうと気持ちをまとめた。
さて、ではいつ出発しようかということになった。今夜栄養のあるものをたっぷり食べて、十分な休息をとって、明朝出発が妥当だろうと思われた。時刻はすでに午後3時。だが、僕たちの目の前には準備万端になった自転車があった。僕とグラントは目を合わせ、頷きあった。
僕たちのチベット自転車横断ど素人の旅は、こうして表参道から渋谷にまでいくような雰囲気でライトに始まった。そして何よりもライトだったのは、僕たちの無添加脳味噌だったことは言うまでもない。
だが、2時間ほどで僕たちは脆くもくたばった。標高4000メートルの砂利道というのはしんどいと学んだ。予想通りであり、もしくはチベットはそれ以上にタフだった。僕たち2人は屈強とはいえなくとも、実はそこそこの体力だってあったはずだ。
それでも2時間で力尽きた。これから毎日こんなことが続けられるのだろうか。真昼間は紫外線たっぷりの直射日光にさらされる。雨や風を避ける木陰の一つすらない火星劇場だ。ううむ。現実は甘くない。激辛だった。僕たちは言葉もなくしばらく世界の屋根に立ち尽くしていた。
だが、僕たちの運は体力ほどには尽きていなかった。
なんとトラックが止まってくれたのだ。僕たちは荷台に自転車を放り投げると(気持ちの中では)助手席に並んで座った。これだよ、これなんだ、僕たちが最初から求めていたのは!ああ、なんて楽ちんなんだ。
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楽になぜ「ちん」が付くのかは知らないが、それは楽ちんとしか言えない快適さだった。シートのクッションが抜けていようが、ラーメンの染みがあろうがどうだっていい。座っていれば、ぐんぐん西進していく駆動力にうっとりした。さっきまでの忌まわしい火星劇場の風景が、途端にスペースロマンとでもいうような雄大なアクロス・ザ・ユニバースワールドになった。
家もない、人もいない。土と山と石と岩のワールド。そこを座ったままで直進していく人類である僕たち。これはすごい経験だなあと主観と客観が陰陽マークのように僕の心中で混ざった。
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そんな夢のような天国ドライブが終焉を迎えたのは、夜の9時だった。闇の中、平原の真ん中で、僕たちはここで降りてくれと言われた。だが、そこは本当に何もない場所で、月明かりだけが煌々としていた。
僕たちは、待ってくれ、せめて人家の近くで降ろしてほしいと身振り手振りで伝え、ドライバーは理解してくれたようだった。
次に降ろされたのは、人家の前だった。周囲にはトラックが数台あったので、ドライバー用の宿泊地だと思われた。僕たちはある民家に案内され、そこで一晩お世話になることになった。
床のない土間の一室で、僕たちは別々の寝台を当てがわれ、電気は通じていないらしく懐中電灯で寝る支度をし、トイレがどこか分からずに、人家の外から少し離れた場所で用を足した。
家の人が部屋に入って来たので、懐中電灯で姿を照らすと、日焼けか煤のせいかで黒々とした顔に、目だけがギラギラとした老女が現れた。食べ物らしきものを差し出している。一瞬ギョッとしたが、すぐに意図が分かり受け取りいただいた。それはおそらくツァンパと呼ばれるチベットのソウルフードで、日本では麦こがしと訳される。大麦を炒って粉にしたもので、それにバター茶などを付け加えて練って食べる。チベット人の素朴な主食である。日本人にとってのおにぎりに当たるものだ。僕はツァンパを食べたかったのだが、ラサでもシガツェでもそれを出している店に当たらなかった。まさかここ場所で出会えるとは。僕は今まさに本当のチベットにいるのだなと実感した。
ツァンパは、慣れたら美味しく感じられるかもしれないといった味だった。僕とグラントは暗闇でそれを食べ終えると、自転車は室内に入れ、それをドアに立てかけてストッパーとした。用心の為である。とにかく休もう。僕はぐっすりと眠った。
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翌朝は6時に起きて、ヒッチハイクを試みた。
昨夜は暗くて分からなかった周囲の景色が朝日に照らされ浮かび上がっていた。どこまでも続く平原であった。しかしその平原は標高4000メートルを超える地点にあり、富士山頂に荒野が続いているようなものだった。僕たちはそう言う場所でヒッチハイクをしようとしているのだった。
どうやら僕たちは昨日全ての運を使い果たしたようで、西行きのトラックは1台も通りかからなかった。おそらく、昨夜同じ場所で1泊していた数台の西行きトラックは早朝に発ち、夜まで待たないと東から西へとやって来るトラックは、来ないのではと思われた。
僕たちにもう少し知恵があったら、西行きのトラックが出発する前に起床して、ドライバーに交渉できただろう。自分に呆れるだけでは足りずに、相棒の知恵のなさにも呆れることで鬱憤を晴らすしかないが、無駄なエネルギーは使いたくなかったのでやめておいた。
しばらく待ち続けたが、さっさとヒッチを諦めて、僕たちは西へと自転車をこぎだした。1日たったからといって空気の薄い悪路に僕たちの体が順応できるわけでもなく、2時間半かかってどうにかラツェに到着した。僕たちはそこで食事をし休憩をとると、幹線道路上の街外れに立ち、ヒッチを試みた。3時間待ってようやく1台捕まり、歓喜したものの、すぐに検問にひっかかり、僕たちは強制的に降ろされた。どうやら外国人を無許可で乗せてはいけないらしかった。
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僕たちを乗せてくれた気のいいおじさんは、制服を着た若くて痩せた男に殴られたが、威力はなくダメージはほとんどなさそうだったのが、せめてものだった。
僕たちは、検問から1キロほど自転車で行った草原で野宿することにした。日が落ちたらトラックはもう来ないだろう。そこには小川が流れていたので、煮沸すれば飲料水は確保できた。火種は草原に転がっている乾燥した家畜の糞で、よく燃えた。僕たちやそれで熱いお茶を飲み、インスタントラーメンを食べた。
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家畜の糞集めを、地元のおじさんたちも手伝ってくれた。僕は、そこに居合わせた男や子供たちを撮影した。彼らにレンズを向けると緊張した面持ちになった。あいにく僕には彼らをリラックスさせられる能力が欠けていたので、そのままを撮った。それらは納得できるポートレイトにはならなかったが、あの時の雰囲気をよく伝えている。こう言う場合は何がいい写真と言えるのだろう。
その夜は冷えた。シガツェで買ったテントは重いだけの時代遅れの旧式で隙間風が入り、一晩中身を縮めて寒さに耐えた。
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翌朝も6時に起きた。荷物をまとめて僕らはトラックを待ち続けた。標高は確実に上がっているようで、自転車をこげるような感じはなかった。
4時間待って10時に一台を捕まえることができた。4時間もあてもなくトラックを待つという経験は、できるなら2度としたくない。もはや自転車でのチベット横断は体力的に無理だったので、選択肢はひとつ、とにかくトラックを待つしかなかった。
平原で二人でぼんやりしつつ、時々会話もする中で、グラントの口から意外な人の名前が出た。彼はその日本人に憧れて、3週間の休暇中に何か冒険もしくは冒険めいたものをやり遂げたいと考えていたのだ。その日本人は植村直己。日本の伝説的な冒険家である。僕たちの世代でアウトドア好きなら誰もが知っている男だった。
グラントの住むオーストラリアまで彼の名が届いているとは意外だったが、つまり僕が知らなかっただけで、植村直己さんは世界的な冒険家だったのだ。僕は彼の名を聞いて、グラントの無謀な自転車旅への執着の出所を理解した。できたら彼の植村さんへの憧れをシガツェで聞いておきたかった。彼が自信満々に準備を進めていたのは、サバイバル術への自信からではなく、実力を伴わないただの憧による昂りからだった。もしそのことをシガツェで僕が見抜けていたら、彼を止める説得をしていただろう。そう、そもそもが無謀な旅だったのだ。
とにかく、その日もトラックを奇跡的に捕まえられた僕たちは、一旦は胸を撫で下ろした。また検問や他のトラブルがあるかもしれないと、喜びすぎないように自制した。
トラックは、ドライバーと彼の息子が乗っていた。中学生くらいだろうか。二人とも人の良さが顔に出ていた。だが、人は問題なくても、トラックに問題があった。かなりの旧式で頻繁に止まった。標高のせいもあるのだろう。止まるたびに息子がドアを勢いよく開けて出て行き、何かを施して戻ってくるを繰り返した。
遅々としてはいたが、歩くよりは確実に早く、そして楽ちんだった。
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だが、次の町であるティンリに向かってわずか10キロ進んだだけで、僕らは突然降ろされた。彼らの目的地である砂利置き場に到着したのだった。彼らはそこでの作業に従事するために僕らを降ろすしかなかった。こればかりは仕方がない。僕たち二人は自転車で遅々と前進しながら、一方で背後からやって来るだろう別のトラックを待ち続けた。
道は緩やかな登り坂が続き、標高は少しずつ上がっていった。おそらく5000メートルを越えるだろう。僕は今夜野宿になったら凍死するかもしれないと本気で心配し始めた。
3台ほどが無情にも通り過ぎて行き、凍死コースがじわじわと現実味を増し始めていた。食べ物はビスケットとチョコレートのみ。今夜はグラントと抱き合って眠らずに夜を明かすことになるかもしれない。映画の中でしか見たことはないが、あの「眠ったらダメだ!眠ったらダメだ!」と頬を叩かれる場面を今夜経験するのだ。
そう言う時に、火事場のクソ力ならぬ、クソ知恵が浮かぶものだ。僕は思いつきをグラントに説明した。
「いいか、僕が急病人の振りをして路上で倒れた演技をするから、君は大袈裟に救援を求める身振りで車を止めてくれ」僕の拙い英語でもこのくらいのことは何とか通じた。気合いである。グラントは神妙な表情で受け入れた。
その後、東から土煙をあげてやってくるジープの姿があった。チキンレースのようにどっちが避けるかみたいにならないことを願いつつ、僕は路上に横になり、グラントは車に向かって駆け寄るようにしつつ両手を大きく頭上で振った。結果グラントは車を制し、僕の方を指差しつつ英語でまくしたてた。時々僕の方を見る時にグラントの表情が見えたが、なかなか迫真の演技だったと思う。
2人の名優は、まんまとジープに乗り込むことに成功した。なかなかのコンビであった。
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