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1995年のバックパッカー#41 タイーマレーシア 夜行バスはマレー半島を南へと。

翌日は、パッポンの疲れが出たのか、日がな一日ゴロゴロして過ごした。

夕方になってようやく起きあがり、パンガン島へとカオサンを出ていくマッキーとアヤを、フトシさんと共に見送った。なんだかんだいっても南の島が1番いいと彼らは判断したようだ。タイの東岸にはサムイやタオなど他にもいい島があったが、サムイはあまりにも観光地だし、タオはちょっと寂しすぎると彼らは言い残して出て行った。
確かにパンガンにはパーティもあるし、島の裏側はひっそりと静かで、バランスがいい。
僕らとは、きっとまた何処かで会えるねと言い合ってから別れた。それは僕らの本心だった。きっと東南アジアの別の国で会えるだろうし、連絡先も交換しなかった。
そして僕たちはそれを最後に、2度と会うことはなかった。

2人を見送ってしまうと、僕はカオサンの裏にあるセブンイレブンでオレンジジュースを買い、近くの小さな公園でフトシさんとのんびり過ごし、一旦解散してから21時にゲストハウスの食堂で再集合した。そこに初めて会う日本人ひとりと、フトシさんの友達の金子さんが加わり、4人でバーミーを食べた。
カオサンは日本人バックパッカーが特に多いわけではなかったが、ちょうどこんな風に、たまたま集まった感じだった。

バックパッカーの中には、日本人とつるむことを避ける人も中にはいた。せっかく国外にいるのだから外人と付き合っておきたいという人たちだ。それはそれでいいと思うが、結局国籍はどうでもよく、気の合う人と楽しくやりたいと僕は考えていた。日本人だから云々というのは僕にはなかった。
金子さんによると、ジェネラルホスピタルで入院中に仲良くなった看護婦さんとデートしたけれど、服を脱いだら萎えたそうだ。金子さんは風俗よりも一般人と仲良くなるのが好きで、武勇伝もたくさんあるとのことだった。
とっておきの場所があるからさ、とそんな金子さんが目を輝かせてみんなを誘い、僕らは彼についていくことにした。

金子さんお勧めのサクスフォンというジャズバーは戦勝記念塔近くにあり、靴を脱いで入るスタイルの店だった。
店内は薄暗く、ジャズがかかっていた。そして残念なことに、人は疎だった。
金子さんによれば、サクスフォンは入れ食いスポットで、タイの大学生たちが外国人との恋のきっかけを求めに来る場所として有名だということだった。
しかし目の前には、ガラガラの一昔前のジャズ喫茶があるだけで、若いタイの女の子なんて1人もいないのだった。
「曜日を間違えたのかなあ」とシンハービールを片手に金子さんはあらぬ方を見ながら言った。きっとその通りで、週末でないと大学生は忙しいのだろう。
結局僕らは宙ぶらりんの気持ちを落ち着かせるべく、プロのいるパッポンへと遠征する流れになった。
だが、そこでも僕たちはなんとなく低調な気分で、要するにいろいろ飽きていたのだった。
キングズキャッスル2を出て向かったディスコでもあまり楽しめず、そんな気分の時にTUKという名の女の子が現れた。少し話したりしているうちに僕だけがTUKと意気投合し始めた。
とはいえ、あまり楽しめていなかったみんなが帰るということになると、TUKとそれ以上一緒にいる気にもなれずに、4人でカオサンへと戻った。帰り際にTUKは電話番号を書いた紙をくれた。バンコクに戻ったら電話して、と。
僕は部屋のベッドに寝そべると、そろそろタイを出る頃だな感じた。そんな9月5日は父の55歳の誕生日だった。僕の生まれ曜日の火曜日のことだった。

翌朝5時発のバスで、僕はマレーシアの首都クアラルンプール(KL)に向けて出発した。
もちろん直行便はなくて、何度か乗り換えなくてはいけない。僕はこの乗り換えが苦手で、接続の待ち時間や、乗り場で目当てのバスを探すことなどが億劫で、それらの場面を想像するだけで気持ちに影が降りた。
驚いたことに、ノーンカーイで一緒だったユキノリがバスの中にいた。乗り場では気づかなったので、狐につままれたようだった。

ユキノリによれば、僕が出た翌日に、日本人大学生ユリさんもメコン・ゲストハウスを去り、学校生活へと戻ったということだ。出発の時は、ボーイフレンドのプンちゃんと抱き合って号泣していたとのこと。僕はその様子がありありと想像できた。メコンの悠久の流れの横で悲しむ2人。早く再会できるといいけれど、半年後の春休みまでは長いなと思った。

車中には他にも1組の日本人のカップルがいた。いかにも数日前まで日本にいたといった雰囲気で、夏休みをずらして取ったのだとか。行き先はサムイ島だった。そこは数日前にマッキーとアヤが素通りしているはずの島だった。
ユキノリには、結婚を考えていた恋人のミウちゃんがいたが、結局電話であっさり振られたと告白し、演技でもしているような悲しげな表情を浮かべた。吹っ切るために、800バーツ払ってソープに行ったと悲しげな表情のまま呟くので、さすがに気の毒になった。

ユキノリは札幌に住んでいて、ススキノで集客数1番のキャバクラで働いていた。ベストから黒服に昇格するのがとにかく大変だったという。帰国したらまた同じ店に復帰することが決まっていて、タイはただの遊びで来ていると言いつつも、バックパックを背負った一人旅姿が様になっていた。おそらくユキノリの風来坊な雰囲気がそうさせているのだろう。
僕もその店は一度だけ仕事の付き合いで訪れたことがある。会社のおごりでだ。もしかしたら、その時にベストを着たユキノリとすれ違っていた可能性はある。


早朝の5時半、カオサンからの夜行バスは終着地スラータニーに到着した。乗客はみなもぞもぞと動き出し、ゆっくりとバスを降りていった。
あの夜、札幌のススキノにいた僕たち2人は、スラータニーというタイの地方都市でさよならとなった。僕がこの先もKLまで行くことを知ると、ふうんと頷いて感想はなかった。ユキノリはマレーシアには全く興味はなさそうだった。
ユキノリは残りの日程のほとんどをタイの島で過ごすらしい。どの島に行くかは港に着いた時の気分で決めるという。その感じはツーリストではなく、やはりバックパッカーだった。
別れ際はいつも不思議な、雲の上にでもいるかのような雰囲気になる。僕たちは何故か知らないが出会ってしまい、そして当然のように離れていく。まさに別の線がたまたま交差するようにだ。
ユキノリが見るタイの南の島の風景の向こうには、札幌の喧騒と、ミラーボールが輝くキャバクラの店内が続いている。それは何かの奇跡のように思えた。
そして僕が見る風景は、やがてどこへと辿り着くのだろう。僕は心の中の多くを占める期待の隅に微かな不安の影を認めつつ、車窓の風景に寄りかかるようにしていた。1995年、9月のマレー半島での一瞬である。

トランは今頃何をしているのだろう。

早朝5時半にスラータニーへ到着したのに、乗り換えのミニバスが出発したのは9時だった。3時間以上早朝の路上で過ごしたことになる。こういうのが僕は案外苦手だった。
僕を乗せたそのミニバスは国境へと僕を順調に運び、ハジャイを通過し、タイ側の国境ダノクへ到着した。
ハイウェイの料金所のような施設を2つ通過し、僕はこの旅9番目の国マレーシアへと入国した。アスファルトの継ぎ目がはっきりとボーダーの存在を可視化していて写真を撮った。現実に目に見えて存在する物事だけでなく、その向こうの見えない何かを残すことこそ写真の仕事だが、やはり形を単純に記録するのも大切だと意識した。
国境ではマレーシアという国に特別な印象を持たなかった。カンボジアからベトナムに抜けた時、ラオスからタイに抜けた時、そこには国力の差がはっきりと道路の質や周辺の家屋の姿に現れていたが、タイとマレーシアの国境から見る限りでは、2国は同等に見えた。


乗り換えたバスは、エンジン音も安定していて乗り心地も良かった。
やがて19時半にはバタワースというマレーシアの地方都市へと到着した。ここで再び乗り換えとなる。
マレーシア西岸にある観光島ペナンに面する港町であるバタワース。街の名が持つ響きからして、ここはタイではないことが感じられた。そしてマレーシアはイスラムの国である。ドームを持つモスクの姿を見かけるたびに、そのことを意識させられた。
僕は次のバスが出るまでの間、屋台で食事をしたり、そぞろ歩いて過ごした。一人で見知らぬ街を歩く時、僕は一人であることをより強く感じ、少し寂しく、そしてなぜか喜びを感じるのだった。


最終目的地、マレーシアの首都クアラルンプールへのバスは、22時過ぎに出発した。
さっきまで歩いていた街が、あっという間に遠のいていく。

マレーシアは、僕がこの世界一周バックパックの旅を始めるきっかけとなった場所でもある。
そもそも始めは、マレーシアにだけ行こうとしていた旅だった。それが準備を始めているうちに、気持ちが大きくなってどうせなら世界一周してしまおう、となったのだ。
そして、マレーシアに行こうと思ったのには、日本の詩人・金子光晴への憧憬があった。彼が昭和の初期に、まだ一般人の観光というものが物珍しかった頃に、放浪しつつアジアからパリへと旅した軌跡を記した金子光晴の紀行文の圧倒的な美しさに僕はやられてしまっていた。そこにある日本語は、僕がいずれ書くべき日本語だと直感した。
その金子光晴による「マレー蘭印紀行」の舞台であるマレーシアの街を訪ねたいというのが旅の種だった。

夜のマレー半島をバスで南下しつつ、高揚と長距離移動の疲れを混ぜ合わせながら、僕は移動すること自体の喜びに浸っていた。
マレーを下るバスは、それが乗客への最上のサービスであると信じているのか、冷房を効かせまくっていた。現地の人々との体感温度の違いがあるらしく、僕は身を縮ませながらクール便の荷物のような気持ちになったまま過ごした。

そしてKLという愛称で知られるクアラルンプールへ到着したのは、早朝の4時半だった。タイのカオサンロードから、48時間かかったことになる。
バスを降りると、KLの生温かく湿った空気に包まれた。車内の乾いた冷えに順応していた僕の肌が、街の外気に熱帯を濃く感じた。
早朝だけに人の往来もほとんどなく、がらんとした大都市の足元を僕はしばらくゲストハウスを探して歩いた。KLは想像よりも近代的な大都市だった。
簡単に見つけられるはずだったが、早朝から空いているゲストハウスはなかなか無い。ようやく見つけたエクセルインはマレーシアドルで55と高かったが、重い荷物を下ろして横になりたかったので、甘んじることにした。
ものすごいアーリーチェックインだったが、無理を言って部屋に通してもらえたので、そのまま眠ることにした。それほど疲れは感じていなかったが、横になると体がベッドにじんわりと沈む心地がした。気持ちは昂っていたが、体は疲れていることを正直に伝えていた。


11時に起きると、何か食べようとマックへ入った。こういう時は食べ慣れた味と、安価というのもあって便利なマックなのだった。
僕は、美術館と博物館をとりあえずのんびり巡り、たいした感銘も受けなかったが、その博物館では、地元の大学生の女の子に声をかけられて、しばらく庭で話した。髪を薄い布で覆っていることからムスリムだと分かる。それは僕にとってムスリムの女の子と初めての会話でもあった。


その彼女は二十歳で、法律家を目指して勉強中だった。会話は英語である。その時まで僕のムスリム、特に女性のイメージは、非外交的で、男性とは会話も含め、全く関わらないというものだった。なので、その女の子と話している最中も周囲の反応に気を遣っていた。タブーに触れてないかと。
だが、それは杞憂だったようだ。ムスリムといっても国によってその厳格さは異なり、マレーシアは比較的緩いようだった。
その大学生の彼女との雑談の中で、僕の容姿が話題になった。彼女の日本人像から僕の顔や雰囲気は離れていたようだ。癖のあるロン毛、ぶらりとしたラフな服装の僕は、彼女の中での日本人像である、短髪メガネ、背広姿でおじぎを沢山しているものから激しくはみ出ていたのだ。「わたしには、あなたは日本人とイギリス人との間のように見える」僕はそれを聞いて、そこまでギャップを感じているのかと小さく驚いた。目の細いのっぺりとした薄い顔の僕は、東アジア人の平均的な顔なので、欧米人を思わせる部分は微塵もないのだが、彼女はそう感じるのだ。面白いなと楽しんだ。

その後、18番バスで、伊勢丹に行き、タンクトップを買った。それは東南アジアの旅する時の定番であり、つまり消耗品である。

夜は、置き屋街を見つけようと、情報ノートから仕入れていたアイデアに導かれてチューキットと呼ばれるエリアへ向かった。
小さな碁盤目上のエリアは、ギラギラした目をした兄さん、おじさんたちで賑わい、おそらく政府公認の赤線街らしく堂々と露天も立ち、強壮剤の類が並んでいた。カブトガニ、鹿の角、蛇などから、何だか分からない怪し気な物まで並び、生々しい夜市であった。
僕はそんな風景を眺め、彷徨いつつ、熱帯は夜がいいよな、などと呆けた感想に浸った。男たちの欲望は果てがあるような、ないような揺れを夜の路上で見せて、やがて鎮まっていく。

すべて夏の夢、消えてなくなる泡のような一生。


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