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1995年のバックパッカー20 中国10 チベット1 高山病の洗礼と新相棒登場

クンガ空港からラサ市内までは、遠かった。

火星を思わせる荒地の悪路をバスで揺られること、実に3時間もかかった。福岡空港から博多までは地下鉄でわずか2駅、10分くらいだ。しかも福岡は国際便も発着する日本でも有数の都会なのに、土地の有り余ったチベットでなぜ市中近くに空港を作らないのだと不思議に思った。おそらく政治上、防衛上の理由なのだろう。

とにかく高山病による頭痛を抱えての3時間はちょっとした拷問で、幼い頃にしでかした罪のいくつかを勝手に自白したくなるほどだった。

ようやく到着したラサでは、悩ましいほどに重いバックパックを背負ってうろうろし、ヤクホテルにチェックインした。ヤクというのはチベット特有の長毛牛のことだ。僕はなぜかこのヤクが昔から好きで、もちろん本物を見たことがなかったら、このチベット訪問中には何処かで見れるだろうと楽しみにしていた。


ラサの風景。
ラサの裏道。

ひとまず、刑期を終えたかのように荷物をヤクホテルのドミトリーに下ろすと、ようやく人心地がついた。値段は27元、35円くらいか。もはやいちいち安いぞ!などと思わなくなっていた。そのドミトリー37号室はなぜか日本人ばかりだった。この旅が始まってから、宿でこんなにも多くの同胞を見るのは初めてだった。だが、それは特に嬉しいということもなかった。

相変わらず頭痛はひどく、今日はのんびり過ごすと決めてベッドで横になっていると、しばらくしてクンガ空港で見かけた長身の白人が同じ37号室に入ってきた。向こうも僕に見覚えがあったらしく、簡単な自己紹介をお互いに済ませると、少し外を歩こうということになった。

彼の名はグラント。オーストラリア人。ハイアットホテルで働いていて、3週間の休暇をとってチベットとネパールを旅するのだという。
無期限の旅の中にいる僕にとっては、3週間は小さなテーブルでフルコース食べているような感じだが、一般的な日本人にとっては、羨むような長い休暇である。おそらく世界中にあるハイアットホテルに泊まるなら、社員割引などの特典満載で、たとえば地中海を眺めながらのバカンスだってできただろう。
だが、グラントは僻地を選んだのだ。僕はなんとなく親しみがわいたが、それでもオーストラリアとチベット・ネパールがうまく結びつかず、日本人がアボリジニの村を訪ねに来るのもオーストラリア人に同様な違和感を感じさせているのだろうと思った。

頭痛はましになったとはいえ依然として高山病であるらしく、歩いていても足元がふわふわして、地に足がついていない感じだった。これは浮ついた心の状態のことではなく、文字通りの感覚だった。グラントは高山病は平気らしかった。ひょろっとして気が優しい男で、年齢は同じくらいに見えた。山よりも図書館が似合いそうだし、それこそホテルのフロントにいたら信頼できそうな彼であった。

僕たちはランチをしようと食堂に入り、ボビとモモを食べた。どちらも人の名前のようである。ボビはチベタンブレッドとも呼ばれ、クレープ状の極薄のパンであり、炒めた肉と野菜にヨーグルトソースで絡めたものを、そのボビに挟んで食べる。洒落た味であった。モモは大きくて皮の厚い餃子である。こちらは割と知られている。これも美味しかった。

高山病でげっそりした気分の僕であったが、美味しい物をお腹いっぱい食べると、なんだか気持ちだけでも元気になれた。実際食べ物がエネルギーになるには消化と吸収と吸収の時間が必要だと思うのだが、食べている瞬間から、もぐもぐしている最中に元気になれるのはなぜだろう。栄養素吸収などとは別のルートで、人は心を起点に元気になれるのだろう。

「食べる」は大切だ。


95年の頃はポタラ宮前の道路は未舗装だった。
人もそんなに多くない。

すっかり気分の晴れた僕は、夕食も同室の日本人たちと中華を食べに行った。ランチはチベット料理、夜は中華などと記すと、バックパッカーの節約旅も、ちょっとしたグルメ感が出てくる。日本にいたらそんなに外食ばかりしないのだが、キッチン付きの宿泊施設に長期滞在しないかぎり、自炊で済ますのはかなり難しい。節約旅の食生活の楽しみは、いかに安くてうまくて、できたら量もたっぷりの食堂を見つけられるかにかかっている。食事のうまいまずいは、絵画や音楽の趣味ほど個人差がないので、旅人が集まると、食事の情報交換は必ずや交わされる。あの街ではあの場所のあの食堂のあれを食べるべきだ、などと言われると誰もがしっかりメモを取る。ふだん、「すべきだ」などと言われるのが嫌いな独立独歩の人々もこの時ばかりは素直に断定を受け入れるのだ。むしろ断定の恩恵を待っている。

こと、情報に関しては、なぜか日本人とドイツ人は優秀で、質と精度は素晴らしいといえる。

その夜、同じドミトリーの日本人たちと中華を食べながら、僕以外のすべての日本人がチベット通であることに驚きつつ幸運を感じた。

その中でも僕よりも年下の二十そこそこの青年がすごかった。彼はカイラス山までの400キロを、厳冬期に二ヶ月かけて踏破巡礼してきたのだった。

チベット人にとって最高の聖地はカイラス山である。これは日本人にとっての富士山を何度も気の済むまで掛け算したくらいの特別な場所だ。有名な五体投地というチベット人の宗教的行為は、このカイラス山まで大地を尺取り虫のように進み、到着したら、その山をぐるりと一周するのだ。地を這うようにしてだ。おそらく移動距離とタフさでいったら世界一困難な宗教行為なのではないか。

彼が道中五体投地だったかは知らないが、それでも真冬に5000メートルを越える場所も通過しつつ、時に雪道を作って眠ったりと、数々の困難をくぐりぬけてきた男が、その時僕の目の前で炒麺とかを食べていたのだ。

だが、僕からしたらかなりの冒険を彼はことさら誇るわけでもなく、長い散歩をしてきたかのような感じで淡々と話すのみだった。うーむ。

自分のことを大きく見せたいのか小さな話を大袈裟に話す人の方が多い中、謙虚とも違う若き彼の落ち着きに僕はじんわり焦らされた。そして単純な僕はこう思うのだった。これからこの旅でどんなに風変わりな体験をしようとも、このカイラス山の彼のように盛らずに済まそうと。むしろ少し引き算があってもいい。僕はいつかカイラスにも行きたいと心から思ったのだが、それはまだ果たされていないし、正直今となっては面倒臭くもある。この夜の数日後からチベット高原で僕が体験することが、カイラスに向かうことを躊躇わせてしまうのだ。もしあのしんどくて、へんてこりんな旅がなかったら、僕はカイラス山を何度も訪れることになったかもしれない。だが、現実はそうはならなかった。今となっては、それはたったひとつの選択の違いから生まれていたことがはっきり分かる。

翌日は、グラントとポタラ宮を訪れた。

ラサの街は、もう何ヶ月も雨が降っていないかのように乾き切っており、通りを歩く時は、車が行き過ぎる前に顔を何かで覆っておかないと、土埃で咳き込むほどであった。

ポタラ宮は、東西に伸びた大通りに面していて、車の数は多くはなかったが、そのほとんどが危なっかしい速度で走り、命の重さをうっとおしく思っているらしかった。田舎の人だからといって、土地の風景のようにのんびりしているわけではない。ラサでも時々血を見る諍いもあるという。


チベットには、いくつかの種族があって、それぞれに方言と性格が異なる。中でも東部に住むカム族は気が荒く、喧嘩になれば腰にぶら下げている短剣を光らせることもあるという。だが、そういう好戦的な種族は往々にして見栄えが良かったりする。凛として誇り高い戦士のような雰囲気がカム族の男たちにはあった。

そういうことを教えてくれたのは、グラントだった。おそらくチベットに来る前にいろいろ調べてきたのだろう。民族衣装を着て、颯爽と歩くカム族の青年二人を見つけては、グラントは目を輝かせながら教えてくれたのだ。おそらくラサから東へと旅をすれば彼らを見かける頻度は増すのだろう。だが、僕は西へと旅するつもりでいた。西へ西へとチベット人の街を数珠繋ぎに行き、やがてネパールへと抜ける線を思い描いていた。

これまでの旅を振り返っても分かるように、僕は一箇所でだらだらと過ごすことをよしとしなかった。世界は想像以上に広いことを僕は肌で感じ始めていた。ちょっとした長居を繰り返すと、金が尽きる前に世界一周が果たせなくなるかもしれない。それだけは避けようと決めていた。

 なので、昨日ラサに到着し、おまけに軽い高山病に罹っているのに明日には西へとラサを発とうとイメージしていた。

僕とグラントは、ポタラ宮の足元に辿り着くと、宇宙のような深い青空に突き出た白亜の宮殿の雄大さに惚れ惚れした。地上高は100メートルを超し、立つ場所の標高は富士山頂とほぼ同じだ。


ラサでも自転車は主役。

もはや別の惑星の王族の城を思わせるような威容に圧倒される二人であった。僕らは自然と敬虔な気持ちになって、ポタラ宮の内部に入り、高山病に配慮しつつゆっくりといくつもの細かい階段をも登り、見学が許されている装飾を異にする小部屋を巡った。基本的に薄暗く、迷宮のような造りで、時々不意に僧侶に出迎えられたりしつつ、まるでインディジョーンズの映画に入り込んでるような感じだった。冒険心をくすぐる楽しさの中には禍々しさも僅かにあって、そのたびに敬虔さを思い出すのであった。

ある階の僧侶から、数十年は使っていそうな古い魔法瓶を傾けて、バター茶なるものを分けていただいた。勝手にミルクティーを想像していたのだが、甘みなどなく、牛の香りがする薄い塩味のもので、薬だと思って飲むことになった。


内部には色彩が溢れていた。

薄暗く陰気でカビを感じる室内を上り詰めいよいよ屋上に立つと、頭上には青空が抜けていた。僕はそこに、美しさではなく恐れを感じた。死後に天国に向かう途中でその青空を突き抜けなくてはいけないのなら、僕は地上に戻ることを一度は考えるだろう。神というのは恐ろしいのだった。それは畏れという漢字では品が良すぎるように思えた。


屋上。

ポタラ宮内では、グラントと一切会話をしなかった。それが僕にとって自然であった。不要であったからだ。暗いぜ、匂うぜ、頭がぶつかりそうだ、などという軽口は、その場にそぐわなかった。

口数の少ない物静かな民というのは自然環境の厳しい地方に住む民の共通のキャラクターだと思うのだが、それだけみて彼らの暮らしがつまらなさそうと判断するのは早計で、限られた食物から得た大切なエネルギーを空回りさせて無駄に使うことを避けようとする以前に、そういう動き方を知らないのだと思う。ひとつの習慣なのだ。


ポタラ宮からの眺め。


ポタラ宮を堪能し終えた僕たちが、裏側から出て外壁沿いに歩いていると、あるカップルが連れションをしている姿を見かけたと日記にある。彼女はアジア系で、彼は白人とある。連れションというのは二人でしていたということだろうか。一人は立ち、一人は座りだろうか?ちなみにインド人は男でも座りションがスタンダードであるから、そのカップルも二人で座ってやっていた可能性もある。彼女を彼が隠すようにして。

中国では、理髪店が娼館を兼ねていたが、チベットではレストランが兼ねている様子だった。それと分かる女の子がレストランの一角に固まって座っていたり、店前でたむろしている。僕は明日はラサへ発つつもりになっていたので眺めるだけにしておいた。

埃っぽい街のせいか、野良犬たちも薄汚れて汚く見えていた。雰囲気もやさぐれていて、手を出したら噛まれるような目をしていた。

ラサ最後の夜は、インドカレー屋に行った。グラントと福岡からの日本人の青年とで。福岡の彼は、婚約者と連絡が取れないことが気がかりで食事も喉を通らないほどになっていた。つっこんだ話はしなかったが、喧嘩でもしたのだろうか。僻地になれば国際電話もままならない時代の話だ。ファックスと留守電の時代である。インターネットもなく、紙とテレビの時代である。僕たちは即時性のない繋がりづらい時代に、いったいどんな風に仲直りしていたのだろうか。おそらく諦めと時間が解決してくれていたのだ。

その福岡の彼とはもはや繋がっていない。なので、婚約者とのその後はわからない。





 

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