1995年のバックパッカー#32 カンボジアーベトナム 陸路で国境を越えること、その楽しさ、サイゴンの響き。
8月4日の日記の最後には、午後には雨が降ったこと、夕食を近くのインドレストランで食べたこと、そこでマイクタイソンが負けた試合を見たこと、が記されている。場所は東京ドームだ。
おそらく僕は、それらを遠い遠い星での出来事のように感じたに違いない。昼間に内戦による負の遺産を巡った後の動揺も収まらないままマイクタイソンがノックアウトされるシーンを眺め、どちらにも現実味を感じられないまま、浮遊感に包まれていたのだろう。
旅をしていると、どこからも切り離れてしまった頼りなさと心地よさを同時に感じることが起こる。それは高揚感に至ることもあるし、寂しさの中で背中を丸めることにもなる。いずれにしても、この旅の副産物を僕は時々味わいながら、なおもバックパックを背負って歩き出すより他はなかった。
その後数日は、プノンペンをぶらぶらして過ごした。
慣れてみると、街の荒涼感が心地よくさえ感じられてきた。既に情勢や景気の底から脱して未来へと歩み始めている気配が漂っていたのは大きい。人間が、いや生命が本来持っている明るさへの向日性とでも言ったらいいのだろうか、現在は荒涼としているが、数年、10年もしたら、いっぱしの東南アジアの都市の姿へと変貌するのが感じられた。
とはいえ、日没後は気を引き締めて用心して歩いた。おそらくそういった態度は、これから世界の国々を巡っていく上で、必須の心構えであることを、僕はプノンペンの街で学んでいるのだった。
7日の夕方、僕は顔馴染みのバイタクの兄さんの案内で、中心地から離れた置き屋街へと出かけた。彼は、秘密の場所に連れてきたかのような得意顔だった。そしてそこはまさに案内なしでは辿り着けないような田んぼの真ん中の中洲にあった。
その置き屋は、僕のような外国人にも寛大で、待合室のようなリビングルームでは待機中の従業員が写真をやビデオを撮らせてくれ、撮影されていること自体を楽しんでくれた。
ビデオはハイエイトで、カメラはビッグミニ、スマホなどない時代だった。肖像権などにも誰もが無自覚で、現在とは状況がかなり違っていた。
そこで働く女の子たちは、聞けばほとんどがベトナムからの出稼ぎだという。隣国で働く理由は様々なのだろう。こういう場合の事情というのは、どこの国、どこの場所でもほぼ同様だろうし、決して背景は明るいはずがない。
だが、その置き屋はまるで部活の部室のようで、オーナーらしきおばさんはじめ、みんな明るく笑顔が絶えなかった。それは影を隠すための演出などとは違って、客がいようがいまいが関係なくそこにある明るさのように見えていた。
女の子は住み込みで自室を持っていて、そこに客が入るようになっていた。その部屋は、オーディオセットやテレビ、棚にびっしりと詰まった服や靴、おもちゃなど、当時としてはかなり物質的に満たされていた。
長居をするつもりはなかったが、激しいスコールのせいで、待合室でバイタクの兄さんと待たされることになった。田んぼの中洲での雨宿りは、なかなか経験できないものだ。大粒の雨が屋根を叩く音、じっとりと厚みのある湿度、日没の影、全てが現実離れしていた。
スコールも開け、ようやくプノンペンの街に戻ると、タイのパンガン島で多くを共に過ごし、バンコクでも鉢合わせていたマッキーとアヤをハッピーゲストハウス(快楽旅社)に訪ねた。旅の動線が似ている彼らとの再会は、嬉しかった。旅での家族のような2人は、いつもと同じ彼らであって、この先の東南アジアの旅でのちょくちょく会うことになりそうだった。パンガン島での思い出話、そしてバンコクやタイのこと、もちろんプノンペンでのことなどを話して盛り上がった。ただ、その時の僕が置き屋帰りだったとはアヤのいる前では伏せておいた。
旅の夜遊びを愛する僕たちは、マティーニというディスコへでかけて、日が変わる閉店まで踊り続けた。ベトナムの女の子ホウさんと知り合い、彼女とも踊り続けた。日記には、下半身がぼろぼろになって帰ったと記されている。いったいどれだけ踊ったのだろうか。
そして、それがマッキーとアヤとの最後のダンスにもなった。今頃彼らはいったい地球のどこにいるのだろう。プノンペンでのラストダンスを覚えているだろうか。
8月8日
僕はプノンペンを出発してベトナム国境へと陸路で向かった。
陸路や海路での国境越えはこの旅で覚えた楽しみだった。目の前にボーダーが現れて、パスポートチェックなどの儀式を済ませて数歩進めば別の国になるという高揚感には飽きることがなかった。
その日は7時半にタクシーで東の国境へと出発した。4時間リアシートで揺られ、9ドルをドライバーに渡した。
そこは痩せた畑が広がる平原で、遺跡のように立つゲートが、カンボジア側とベトナム側に2つ見渡せた。ゲート付近には小さな市がたち、国境を越えて行き来するベトナム人とカンボジア人が客だった。
目ぼしいものはないかと覗いたが、質素な生活品と農産物が並んでいるだけだった。その場所でしか得られない、ステッカーやワッペンなどが目当てだったが、旅行者向けのものは皆無だった。
カンボジア側での出国手続きはすんなりいったが、ベトナム側での入国手続きはかなり待たされた。イタリア人の観光客グループが僕のすぐ前にいたからだ。
出入国ルートとしてはかなりマイナーな場所だと僕は捉えていたが、目の前のイタリア人たちの数からして、その考えはぐらついた。飛行機代をけちったバーゲンツアーか、旅行会社が小知恵を働かせた仕業かはわからないが、イタリア人たちの雰囲気からして、陸路ボーダー越えはさほど魅力的なアクティビティではないように映った。
ようやくベトナムに入ると、乗り合いタクシーに乗り込むのは容易かった。国境で街並ぶ車は、いずれもオンボロだったので品定めする必要もなかった。そのうちの一台に乗り込む前に僕は国境を振り返った。
さようなら、カンボジア。さようなら、アンコールワット、シェムリアップ、トンレサップ湖、ゲストハウス260。そして一期一会の仲間たち。その頃の僕はセンチメンタリストであり、どこかから去る時は、しんみりとすることが多かった。
カンボジアからベトナムへ入国した日は、8月8日。そう、僕の誕生日だった。スマホもソーシャルメディアもない時代に、メコン半島のある荒地で僕を祝福するメッセージはひとつも届かなかった。
僕はせめてもの印象的なイベントとして、国境越えを自分へのプレゼントとして用意していたわけだ。僕は自分自身に関してさほど気に入っているところはないけれど(大方満足している)、誕生日の数字が好きだった。
サイゴン行きの乗合タクシーに乗り込みドアを閉めると、オンボロは走り始めた。意外にもメンテナンスは十分されているらしく、そのスムーズな走りに小さく高揚した。幸先はいいぞと僕は心の中で呟いた。
カンボジアの凸凹道に比べて、ベトナムの道路は整っていた。それも快適な乗り心地を生んでいた。
快適な乗り心地、それがいかに贅沢なことかを、僕はこの旅ですでに十分に学んでいた。チベットの5000メートル高地でのヒッチハイクの経験は、今後も僕を支えてくれるだろう。あれよりは、まし。あれよりは、楽。そう比較できることは幸運だ。足りないものを数えるよりも、足りている喜びを味わえるということは。
国が違うと道が違う。かなり平凡な言葉であり、文章だが、僕はそういう普通のことをたくさん身をもって経験している充実感に浸りながら、カンボジアより明らかに10年は先を進んでいるベトナムの田園風景の美しさに見惚れた。道は整備され、家々は質素で美しかった。
オンボロタクシーは、わずか1時間でサイゴンに到着した。途中でドライバーの奥さんらしき女性が助手席に乗り込んできて、何かが気に入らないらしく喚き散らしていた。ドライバーの夫は言うがままにさせていた。ただ時々は相槌を打ったり、短いコメントを発したは、奥さんが閾値を超えないように柔らかくブレーキをかけていた。この男、なかなかの大人だなと僕は密かに学んでいた。
僕はプノンペンの情報ノートで目星をつけていたゲストハウス街で降ろしてもらった。6ドルだった。サイゴン。いよいよサイゴンに到着した。
その街には新しい名前が与えられていた。ホーチミン。だが、僕は偉人の名前よりも、サイゴンという響きが好きでいつもその街をサイゴンと呼んでいたし、今でもそうだ。
ビリージョエルの「グッバイ・サイゴン」という曲のメロディは重々しくて好きに慣れないが、そのタイトルだけは、なんとなく惹かれていた。僕がサイゴンという響きが好きなのも、その曲名からの影響はあると思う。
僕は、さっさとゲストハウスを決めた。連れ込み宿を兼ねているような感じで、光沢のあるシーツが敷かれた大きなベッドが気に入った。寝返りを打っても打っても落ちない広さだった。5ドル。
さっそく街に出ると、社会主義の閉鎖感など微塵もなく、予想は大きく裏切られた。シクロと呼ばれる人力自転車タクシーやオートバイが幅をきかせ、その数は、水を注がれた巣から湧き出てくるアリの数を連想させた。
道を渡ろうとすると、力こそ正義と言わんばかりのオートバイの圧力がものすごい。歩行者に横切られることは一族の恥とでも考えているかのような形相で阻止されそうになるのを、柳に風のような優雅な独行で渡る術を僕はすぐさま獲得した。
こういうのはプノンペンにはなかった。そもそも人の数、オートバイの数が比較にならない。かつて、生まれて初めてマンハッタンを歩いた時の高揚を思い出した。
「この街には全てがある。そしてこの街では誰も僕を知らない」
その時と同じ街の熱がサイゴンにはあった。
僕はバックパッカーの集まるシンカフェに直行し、久しぶりのまともな食事にありついた。その時遅めのランチで何を口にしたのかは、残念ながら日記にはない。なぜだ?と当時の僕に問いかけたい。もう一歩前へと彼に伝えたい。
僕は食後の眠たさと疲れを癒そうと、部屋に戻り夕寝を楽しんだ。つるつるのシーツと冷房、広大なベッドは天使の存在を感じさせた。一泊5ドルの天国だった。
夜になると、雨降る中を、ドン・コイにあるドラエモンカフェへ行った。久しぶりの日本食屋である。とはいっても駐在委員が行くような高価な店ではなく、バックパッカーでも行ける安価なカフェだ。僕はそこでカツ煮定食を全身で楽しんだ。日本独特の砂糖入りのタレで煮込まれた豚カツの旨さに絶句した。
そしてドラエモンカフェに行った目的は、食以上に、そこにある情報ノートだった。日本人バックパッカーの掲示板である。僕はそこから必要な情報をノートし、これからのベトナムでの近未来図を描いた。
すでに直感的にサイゴンには何かがあると分かっていた僕は、早々にサイゴンを抱きしめたい感情に包まれていた。
そんな予感はすぐに事実、現実となって、形を見せ始める。その形とはベトナム人の女の子だった。正確にはベトナム系アメリカ人の女の子だった。
そう、僕はこのサイゴンで恋をすることになるのだった。しかし、それをまだ知らずに雨上がりを待つ僕は、その日、自分が28歳になったことを1人で祝い、ハッピバースディトゥーミーと口笛を吹いていた。