見出し画像

文章が書けないことについて書く

※本投稿に中身がなさすぎてごめんなさい。弱さと向き合っているだけです。

前述のように、心が分裂し葛藤している。年齢的なものだ。外出できない状況とも相まって、自分の殻を破ろうとする動きと、過去を克服しようとしない保身が今日も闘っている。

文章を書くことは、救済だと思う。満たされていれば、何も書きたいなんて思わない。満たされていないから、確実に伝えたいことが自分の中にあり、それをなるべく多くの人にわかる実例と比喩で以って、さっぱり表現したいという欲求があるのに、それは容易に叶わない。

文章を書くことは結局のところ、孤独な闘いだ。自己否定と自己肯定を交互に繰り返すことだ。

文章を書くことについて、私も多くの人の御多分にもれず影響を受けた名文がある。

「しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく」
「僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヵ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ」

これだけ客観的に自分の状況を率直に表現できたら、もちろん群像新人賞も夢でないのかもしれない。

「文章が書けない」最大の理由は、失恋にあると思う。月日の経過とは無関係に、痛手を負い続けている。それが失恋なのかどうか判断に困るくらい際どい失恋であって、その場合、心は迷宮から抜け出せない。

何を書いても白々しいし、ジメジメしているし、嘘みたいだ。

自分が存在しているのかすらわからない、文章を書かない限り。でも私は確実に存在しているはずなので、それを確かめるためにも文章を書きたいと懇願する。

確実に今、自分の中から何かが生まれようとして、ざわざわして、必死に訴えてきているのに、それを的確に、タイミングよく、とらえることができない。っていうことを表現することすら、なんだか恥ずかしい。

文章という実体をつかむべく、私は渉猟を続けている。例えば、こんな本を読んでいる。

うち2冊(エーリッヒ・フロム以外)は、私のバイブルみたいなもので、迷った時には必ず読むことにしている。私と同じ葛藤を抱え、それを皮肉的に表現して生きた人たちだと思うからだ。

さて「葛藤」とは、何を意味するのか?

私においては、金銭的に苦労してきた人生への劣等感と誇りの相克、と定義したい。

つまり、自信がないし、後悔だらけでも、それに悔いはない、むしろそれ以外の生き方なんて自分にはできないし、それが自分の泥臭い自恃っていう心。

私は不器用で、失敗ばかりしていて、すっきりと納得できる一貫した、完成された生き方をできていないことについては、「ひどく情けない」と思う一方、でもそうでなかったから、ドイツに住んで、全く新しい価値観を身につけた訳であって、それ以外に若くしてドイツに行く方法などなかった、と思う自分のせめぎ合いである。

要は失恋した相手が、前者(めちゃくちゃ器用で優秀)だったから、葛藤の習慣がより強固になった。人生は勝ち負けじゃないし、その人だって、本当にそんなに一貫しているはずはない、見せないだけで、きっと迷いがあるはずだ。

このようにして、「文章を書けない」というテーマから逸脱して行くのだけれど、この過程を経ることなくして、自分からこれ以上の、魂の込もった文章を引き出すことはできない。

あまり苦しいということを前面に出すと、怪しい人たちが近寄ってきそうで怖くなるから、「私は健康だ」と主張して、括りたい。

不器用で結構だし、たくさん失敗しても、そこから学びを得て、着実に成長していることは少なくとも判明しているので、それでよしとする。失敗するから考える。失敗するから真剣に相手と向き合う。

最初から素直に自分のことを表現できるくらい文章力があったなら、私は学ぶことすらしていないだろう。高慢になっていつかは壁にぶち当たるんだ。もっと、人の本質を観察し続けて、文章を書ける人間に成長したい。

その強い希望を、ありきたりだけれど、明日の糧としたい。

いいなと思ったら応援しよう!